十人十色〜それぞれにあるボランティア論〜4


毎回読んでくださってる皆さまに感謝申し上げます。今回のお話はお話した通りネガティブな文章や、ここに載せなくていいのでは?と思う方もいらっしゃると思います。しかし今現在の自分が歩んだ道と、考えをお話しています。内容によってはイライラするかもしれませんが
ご了承ください。

葛藤

高3からの話をと思いましたがその前に、ヤンボラ開催が決まる前の高1の冬、地元に鳥居先生がきて隣の市主催のボランティア講座と体験をやりました。その日Hさんは自分にこの会がある事を伝えるのを忘れてて、当日朝いきなり電話がきました。

ごめん!いうの忘れてた!Sは用事あって来れないけど今から来れる?

えー・・・まあ急だけど午後からYと行くよ。

雪が凄く降っていて行くのが億劫だったのですが鳥居先生も来るし行こうかなと思い、午後から参加しました。
午前中には体験プログラムが終わってたらしく、午後はその内容をグループで話し合い、発表と鳥居先生の講評という流れでした。
その日電話をくれたHさんも日中には来れず夜食事会あるからその時参加するとの事だったので会場には社協の知り合いが2名程と鳥居先生がいました。
参加者は地元の高校生で生徒会やらボランティア活動をメインとする部活の人、役30人程です。

お疲れ様です

グループの話あいの最中に自分とYは会場にはいりました。その時から何か異変を感じてました。

なんか会場の空気重くね?

自分の知ってる話し合いは和気あいあいと話しあってる会とは違いシーンとした中で淡々と話し合いが進んでる会場。とりあえず自分らは空いているグループに入り話を聞いていました。
鳥居先生は何故かむすっとしていて話しかけてもそっけない感じでした。

なんか事件あったのかな?
と思うくらい会場にあまり笑顔がありませんでした。

講評の時間。

6グループくらいあったと思います。それぞれ体験した車椅子やアイマスクを使って目の不自由な人の行動体験の感想などです。

一つ目のグループが体験等の発表を終えようとした時今まで黙っていた鳥居先生が問いました。

その体験をして今後どうしなければならないと思う?

今まで聞いた時のない問いに疑問をいだいてました。
?」「目が見えないのは大変だとおもいました。」

その後だよ!!!!」「どうしなければいけないか話し合ったんじゃないか?!!!!!

今まで聞いたときのない怒号が響きわたり、発表者は涙目をうかべながら細い声で質問に返していました。
違うグループの発表ではアイマスクを途中で取ってしまったという発表に対し、

それじゃ体験ならないだろ!!!!

とか全グループに対して何かを求めるように言っていました。
進行が進むにつれ、発表者は緊張と不安が出てきていました。自分とYはその中である事に気づきます。と言うか、この発表だと(怒鳴られるな)と考える事ができていたのです。当時先生とはまだ付き合いが短かったのですが自分で言うのも変ですが当時の同年代の学生よりボランティアスキルは高い方だと思ってます。
自分のグループの番です。発表者の田村さん(仮)は言う事を書いた紙があったのですがこの内容だと言われると思ったのでしょう、何も持たず発表しました。
(大丈夫なのかな)と不安がありましたが、聞いていると的確な答えと判断力でツッコミどころの無い発表をしてくれました。終わった瞬間自分とYは、絶対突っ込まれないという自信があり、大きな拍手でその方をたたえました。考え通り鳥居先生からの質問はなくその日初めての笑顔で講評してくれました。
この発表してくれた田村さんは後のヤンボラスタッフとして一回目と二回目に参加してくれました。

やっぱりこの発表内容だと突っ込まれないな

その時、この考えが出た事がきっかけで、前回話したような過信の思い込みがはじまってしまったです。自分は考えられる、上手く行動できると思い込んでしまったのです。

しかし鳥居先生は何故こんな質問をしたのだろう。
第一回目のヤンボラの時講演で話してくれました。
ヤンボラやる時の春、先生は北海道の校長になり、学校関係の仕事に戻っていました。それなりの訳があったのです。
自分達の冬の体験会ある数ヶ月前、先生は地元北海道でいつも通りボランティアの講演や体験をしていました。
そして終わり側の講評で、参加してくれてた小学生が放った言葉が衝撃的だったらしく、先生の中で今までのボランティア論が音を立てて崩れていったらしいです。
どんな内容かと言うと簡単に説明させて頂くと、ボランティア体験をした後、その子はその先の事を話したそうです。どうやったらすみやすい街になるか、何を感じられるかなど。


A「あの人車椅子だ」「可哀想だから押してあげよう」

A「困ってますね、押しましょうか??」

B「いえ、大丈夫ですよ。」

A「いえいえ!手伝いますよ!」

そして車椅子を押してあげる


A「いやー、困ってる人助けたなー!」

これボランティアですか?
声をかけ車椅子を押す、他からみるとそうかもしれませんが押されてる人はどうでしょう?自分でできるのにこの人お節介だな〜、とか考えてたら?
相手に寄り添う気持ち、そしてその次。


目隠し体験したけど全然見えなかったな。

毎日こういう所を歩いているんだ

この階段手すりあったら上りやすいな

これが先の事を考える事なんです。どうやったら、どうしたら生活しやすくなるのか。
ボランティア体験してる人はその日のみして大変でしたとか、怖いですとかしか言わない感想なんです。
先生はそこを根本的に見直そうと思いまた学校に戻る決心をしたらしいです。

しかしそんな事我々はしらず、その日の参加者は先生は怖いという先入観ができてしまい、ヤンボラの参加者の人数にひびいたらしいのです。
しかし先生無くしてボランティアは語れません。どんな批判あろうと先生は先生!とか思ってました。
しかし自分はその真面目な考えと、もっと祭り的要素があってもいいと言う考えもありました。ここから毎年自分の中でこの二つ思いが交差し、苦しめました。

脆さ

高3になり部活も引退して夏休みはヤンボラ活文で満喫しました。
この時のヤンボラの開催地は当時の自分の地元ではなかったのですが学生最後という事もあり周りの皆さんが自分を委員長に推薦してくれました。

過信時期に入ってる自分は一回目の会議でもスムーズに進行し、今回は順調に進めていけると思っていました。
体験プログラムの準備、夜の交流会、スムーズに進められていき、(なんだ、余裕じゃん)そう思っていました。

しかし一個だけ決まらないものがありました。グループミーティングの内容です。これだけ全然決まらずいつも次回へ次回へと繰り越され、自分はこの内容の時凄く嫌になりました。ここから脆さが露呈します。
話し合いが進まず、そこから進行できず、挙げ句の果てに自分でどうすればいいかわからなくなっていました。
弱い自分はこの会議がしたくなくてだんだん行きたく無くなっていました。会議も空気が重く全然すすみません。

だめだ、やっぱ自分に委員長は向いてない

何故かそれしか考えれなくなりました。
こんなことも決められない自分に苛立ち、どうしようもなくなっていました。結局何か壁にぶつかるとすぐ逃げてしまい、周りに任せようとしていました。

弱い、ただ弱い自分がそこにいる

全然決まらずにいて本番迎える直前の会議でやっと決まりました、テーマは

友達」  

以上

そこからかくリーダーが話を広げてくださいと言う無茶な内容。

どうすればいいかわからないままグダグダのまま本番を迎えました。

スタッフ30人弱にして参加者200人弱

びっくりしました。

オープニングから最後まで全力で盛り上げたりしました。

盛り上げよう

葛藤の中参加者をいかに受け入れるか、だからはじめの挨拶とか全部アドリブで行きました。現在の義理の姉もこの時副委員長をやってもらってました。

体験プログラム、課題だったグループミーティング、夜の交流会、笑顔が多く見ていて楽しめました。

グループミーティングの時間、自分も一つの班の進行役でした。そこで出した友達とは、そう幼馴染で支えてくれてるYの事を話しました。名前はださなかったけど保育所時代からの腐れ縁、親友ではなく心友。今でも覚えいます、熱く語ってました。何故友達が大事か、どこまでが友達と呼べるのか、気がついたら話題が広がり、ちゃんと話し合いになっていました。そのおかげかグループミーティングも難なくこなせました。

夜、Yと風呂に入り自然と反省点や、こうしたらいいとか話し合ったのを今でも覚えてます。Yがいなかったらと考えるとゾッとするくらい本当に助けてもらいました。

2日考えの日程を終えフィナーレ、参加者帰った後に自分は号泣しました。やり遂げた事と無事に終わった事が入り混じったかもしれません。前回話した自己満の部類状態なのですがこの時は何にも気がついていないです。
すぐに泣くって言う自分の脆さも見えたヤンボラでした。

ヤンボラの詳しい詳細は後々ゆっくりお話します。

この時までの考え方・・・俺はなにをやってるんだ?

新たな決意

ヤンボラ終わって、高3の活文は栃木、ヤンボラの経験や活文の経験もあり目立つ存在になっていました。
当時まだ中学だった後輩Aを連れヤンボラの参加をし、Aと2人仲間作りを楽しんだ夏が終わりました。
地元に帰っても県が主催するボランティアフォーラムに参加したりしました。この時お世話になった青年の家の方々は後々に自分を飛躍させるきっかけになった人たちです。それは後ほど。

イベントが終わっても自分の活動は終わらずHさんやOさんに引っ張られ活動しました。Sさんは大学生となり地元におらず少し離れた都会に住んでいて、自分はたまに帰ってくる夏休みや冬休みにあい、活動報告や色んな話をしました。

進路

自分は介護の道に進みたく、地元の短大にとりあえず推薦入試で行こうと思い、論文と面接練習をしました。

試験・・・そして・・・

不合格!!!!

どーでも良くなりました。倍率はすごく高いの知っていたのですが落ちた自分が許せませんでした。

どうしようかな」

途方に暮れていました、しかし母が

保育士やってみたら??」

なかった選択です。母から話を聞くと自分が卒業した系列の学校が女子しか入れないけど男性保育士10名だけ募集するコースがあり、そこを進めてきました。

とりあえずうけよう、あ、保険で推薦落ちたとこの一般入試も受けよう


結果・・・

どちらも合格!!!

そこから悩みました、脆い自分が出たせいか一週間まともにメシが食えなかったです。

悩みに悩んだ結果保育士の道へ進む事にしました。まあ、家から通える範囲だったのですが県外で新たな交流をしようと思ったのが決まり手です。

春から短大生、それと同時に学生ではありますが大人としてボランティアに携わっていく今後、希望の先に見たのは脆さと絶望になる自分になる事をこの時まだ何も知りませんでした。そして、本当に自分を見失ってしまう時期が来ます。

今回は弱めのネガティヴですが次回はちょっと強めになるかもしれません。

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