十人十色〜それぞれにあるボランティア論〜5

いつの間にか5まで来ちゃいましたw
4から自分のの部分が少し出てきました。
今回もうまくいかない自分の葛藤といろんな事が重なって下に落ちた話しになりますがご了承下さい。

出会った仲間たちへ

高校を卒業してもボランティア活動は続けました。しかしこれと言って毎月活動するのではなく夏のヤンボラメインがほとんどでした。たまに遠くのボラフェス見たり、鳥居先生の開催するワークショップに行きスキル磨いたり、そんな短大ボランティアでした。

そして何より短大1年の夏、自身最終参加の活文、北海道の1人旅、寝れない寝台とずっと聞いていたブラフマン、そして開催地標茶町と地元が思っていた以上の気温差で、

秋田が28度だったのにここ16度!!!!

電車降りて人目気にせずバックから長袖長ズボンに着替えたのは今でも鮮明に覚えており、何より活文終わった後、さあ帰ろう思った矢先宿泊施設に電車の切符が入ったバックを忘れ電車出発5分前に届けてもらった事は今でも忘れませんw。

青森、東京2回、栃木、北海道。活文5回参加し、活文は北海道の次、島根開催を最後に終了しました。
とりあえず,この場かりてお世話なった人、知り合った人、本当に出会ってくれてありがとうございました。絶対に生きている間、もう一回会える事願ってます。

テラ・・・いなかったら初回の活文は1人きりだったよ、青森の実家の寺継いでるか?近いから縁があったら会おうな。

いよし・・・東京と栃木でずっと行動一緒にして、アホなキャラだったけど憎めない弟分だったよ。

愛さん・・・本当に初恋でした。東京最終日に写真撮ろうよって言ってくれてその日で死んでもいい思ってましたwその後ある化粧品のCM出てましたよね?

礼・・・栃木で自分を好きと言ってくれてありがとう、遠距離楽しませて頂きましたw

いっぱい感謝と伝えたい事はあります。名前出したのはほんのごく一部です。短大生として最後に参加して思ったのは人の出会いと一緒になって同じ活動する楽しさを教えた、成長していくにつれ本当に思いました。

思い出といえば先輩のSさんは2回目行った時ファンの方から告白されたそうですwww
帰りの新幹線の話題はずっとそれでしたw

そしてこういう出会いを自分は地元のヤンボラに繋げ、出会いや絆を作って欲しいと思っていました。

ヤンボラでも自分は素敵な仲間や後輩に巡り会えました。人の出会いは感謝ですし嬉しいです。

でもヤンボラにこの体験と経験を伝えるのは難しかったです。今でも慕ってくれたりする人達もいますがその様な人はごく一部、イベントをやるには全員の意識とやる気が大事だと実感していく事だと思う経験が次のお話です。

立場

高校卒業してはじめてのヤンボラ、高校生以下主体のスタッフだったので自分は卒業した時点で大人側のスタッフとして参加しました。1年目の時は会議自体参加はしておらず、当日行って手伝う形でした。高校生とたいして歳がかわらないのと自分を覚えてる後輩がA含め結構いたのですんなりと仲に入れました。

経験者

学生より知識はある

これが後々いらないプライドになります。どこか上から目線で、知ったかぶり。嫌なやつですね。
それでも当時の自分は地元のボランティア活動している学生や大人にも顔が知られてて、調子こいていました。
この年は本当に内容やら何も知らない状態で参加し、ヤンボラが終わった後の学生スタッフの反省会の時にこうであるべき、こうやってたとか上から目線で語るキャラになってました。そして活文の活動を棚に上げ、もっと何かして欲しいと言う欲求を押し付けていく様になります。

二年生の時も同様、実習が忙しく当日参加のスタッフです。調子こいて夜な夜な酒を飲み大人になった自分に酔いしれていました。この年も同様スタッフ反省会の時に自分なりの講評を話して終わり、偉いと思っていました。

ここまではヤンボラOB的な存在でただただ楽しんだだけ、ここからいろいろ考えていかなければならない事があるなんて思ってもいなかったです。この当時本当に自分の立場は、

地元のボランティアを率先してやってる若者

わけわからんです。

1番調子こいてた自分が本格的な大人のスタッフとして参加したのは社会人なった時からでした。

短大を卒業して地元の保育所に勤める事になりました。
地方公務員なので試験があったのですが狭き門で突破できず、契約といった形の採用でした。当時の男性保育士は珍しく、我が町初の男性保育士だったのでいろいろ期待される所もありました。
保育所にいたので地元の中学の子達がジュニアボランティアでちょくちょく来ていて、まだ続いてると思い凄く嬉しかったです。でもどことなく自分は上から目線だった気がします、ただ遊ぶんじゃなくて違う事考えろとか考えてました。ヤンボラの会議の時もOBとして、スタッフとしていたのですがどことなく経験している自分に酔っていて後輩にはあまりよろしくない態度でした。この時の委員長がAで、当日の流れなど細かく聞いた覚えがあります。その流れに対しても色々口出ししてました。

いや、まてよ、


自分こんな嫌なキャラだったのかw

振り返るだけで恥ずかしいしアホだったんだなとつくづく思います。しかしこの年のヤンボラ、自分は初日の夜に高熱が出てノックダウン!最後まで参加せずリタイアしました。

この時の考え方・・・若い子達頑張ってるけどまだまだ考え方浅いなあw(ただの嫌なやつ)


社会人になったこの年、色んな事が一気に進みました。

上になる

働いてまもなく、ヤンボラが始まる前の6月、秋田市の青年の家の方から「あるイベントのパネリストをやって欲しい。」との依頼がありました。この人とは高校のあるフォーラムからの付き合いがあり、秋田県内で活動する若者らの活動内容と今後についてのフォーラムを開きたいという事で、県ボランティア協会からHさんに話しが行き、自分が紹介されたという流れです。
年内で3回開き、県北,中央,県南と場所を変え行いました。2時間程の中で、自分含めた3名と、神戸市のボランティア協会のナガさんを入れ、話し合いをします。
ナガさんはボランティア元年といわれた阪神淡路大震災で一般参加のボランティアをスムーズに動かし、前線で活躍された方です。
地元の県北はその年の冬にやる予定で中央、県南では2日連続で開催でした。土地勘があまりわからないと思いますが、自分の住んでる所から中央地区まで片道車で2時間、そこから県南地区までまた2時間、高速もあんまり通ってなく長時間の運転でした。でも運転は好きなので苦ではありませんでした。又県南地区で開催する時片道1時間の場所で鳥居先生が講演していると聞き、県南地区が終わったらそのまま講演会場の近くのホテルに泊まり、次の日合流しました。

このフォーラムでの内容は・・・
はじめの1時間はナガさんの阪神大震災での行動、NHKでも特集を組まれて当時の映像を見ながら話していきました。
休憩を挟み後半は若者3名の現在の活動、自分は中学から参加している活文ヤンボラの話をしました。他の2名は秋田市ヤートセ実行委員会、沖縄ゆうゆう塾主催するグループジャガー、どちらも若者中心で地域活性化や子ども達との触れ合いの事を話してくれました。フォーラム、といっても開催側の準備不足なのか,どの会場でも人はあまり集まらず、スッカスカの状態でした。けど何故か嬉しかった、こういう所まで自分は来たんだなと舞い上がってました。

アホですねwww

2回行われたフォーラムで、ある事が自分に芽生えてきます。

グループっていいな。

1つの事をみんなでやろう。何事にもそれは大事ですがジュニアボラや高校の学生ボラで活動していた自分は大人になった時どこにも所属せずある意味大人のグループに憧れがありました。
一回目の中央地区でのフォーラムを終えた時ナガさんはじめパネラーの皆さんと飲む機会がありあーだこーだと話していたなかで、

自分どこにも所属してないし地元にもなかなか若者のグループないんですよねw。

ナガさん「じゃ、作ったらええやん。

え?その選択肢はなかったから驚きでした。
当時自分の住んでる町は合併問題が出ていて、合併したらヤンボラの受け皿どうしようと考えてました。飲みの席での話しだったので、そこでは笑話でしたが、本気で自分は悩みました。次の日鳥居先生に会って、車で空港まで送る訳2時間のあいだの車内、その相談をしていました。

げん、まじでいってんのか?
悪い事ではない、地元帰ったらすぐHさんに相談して行動しなさい。

鳥居先生からアドバイスをもらい、Hさんに相談。Hさん自身異動やらあってボランティアをプライベートで行動したいとの事だったのですぐに行動を起こしました。ある程度メンバーが必要となり、社協のOさん、馴染みのY、ずっと一緒に活動してくれて俺らを見ていたTの5人でグループを作りました。Sさんを入れたかったのですが県外でなかなか帰ってこれないと本人から言われたので入れませんでした。立ち上げたグループは


ボランティアグループ「でねが」


どんなネーミングや、と思いでしょうが、でねがの意味として、秋田弁で意見などを聞いた時に、普通だったら

この事なんだけどこれって○○じゃないか?

秋田弁だと、
この事なんだばってこれって○○でねが?

じゃないかがでねがになるんです。そしてもう1つ

一緒に出ない?」

これが

一緒にでねが?

一緒に行動しよう、こういう意見について語り合おうという意味と方言をかけて「でねが」を作りました。
発起人の自分が会長で、事務長がHさん、他3名は会員という方で動き出しました。
やる気と希望は凄くありましたが当時自分は調子乗ってるんで、作った事でまず有意義に浸ってました。
その時の冬、地元で行われたフォーラムでナガさんにグループ作りますという報告をし、会場でもその発表をしました。

「俺はやるよ」

何をやりたいんでしょうねw
ほんとにアホでしたがこのでねがはこれ以降色々出てきます。時に問題も起こします側それは次回にとっておきます。

昔入ってたTV「ガチンコ」的な引っ張り方しますがこの後とんでもない事が的な事はあります。本当に今までの人生で経験したこともないくらい人として落ちます。次回はそんなウソつくなとか言われるかもしれませんが自分は本当の事しか書いてません。それほど次回のことは自分もあまり書きたくありませんがw
皆様に共感と共用していただけたら本当に感謝です。

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