どうして「彼氏がいるんだったら友達にならなきゃよかった」のか、あるいは「華鳥蘭子はなぜ東ゆうを行かせなかったのか」
※劇場アニメ『トラペジウム』の構造的なネタバレを含む記事です。未視聴かつ試聴予定があり、かつネタバレとやらを気にする人はこちらでタブを閉じてお帰りください。また、ネタバレを気にしないという方でも、『トラペジウム』を観ていないと何のことやらさっぱりだと思います。その点ご了承ください。
いいね?
わかりましたね?
では。
「彼氏がいるんだったら、友達にならなきゃよかった」
映画『トラペジウム』を代表するセリフとされている、「彼氏がいるんだったら、友達にならなきゃよかった」。これはべつに観た人間が勝手に言ってる訳ではなく、公式がご丁寧に切り出して宣材動画にまでしているので、オフィシャルにそういう"作品を代表するセリフ"扱いだと見做していいだろう。
……それにしても「彼氏がいるんだったら友達にならなきゃよかった」編て何。
まあ、それはさておき。
このセリフ、実はアニメオリジナルだ。原作では亀井美嘉に彼氏が発覚した場面は実にあっさりしている。
これだけ。
東ゆうは舌打ちしないし、詰めないし、「最ッッッ低。」と吐き捨てもしない。何なら
と、自省するだけ。アニメから入った人間としては驚くほど、本当に全く一切全然東ゆうは亀井美嘉の事を責めないのだ。当然「言い過ぎてごめん」もない。だって言い過ぎてないからね。
では、どうしてアニメは「彼氏がいるんだったら、友達にならなきゃよかった」になったのか。
これは、構造的にそうするのが最も美しかったから他ならない。
いくつかの補助線を引くことで、劇場アニメ版『トラペジウム』でこのセリフに込められた意図が明らかになる。
補助線1、美嘉への意趣返しとして
ゆうと美嘉の間でのぶつかり合いは、翁琉城にてテレビ取材を受けるシーンの帰り道で先行して描かれている。
これは原作小説版のやりとりだが、劇場アニメ版でも(多少のイベント時系列の差、その場にいる人物の差はあれど)ほぼ同じやりとりがなされる。
「彼氏がいる"なら"、"友達にならなきゃよかった"」という、通常の日本語としては、意味と因果関係が通らない無茶苦茶な単語選びをしているセリフは、明らかにこのシーンで美嘉に困らされたゆうの意趣返しと見るべきであろう。これはまあ簡単な話だ。
補助線2、ゆう暴走の起点として
劇場アニメ版と異なり、原作小説では東西南北(仮)テレビ出演から崩壊までがものすごくスピーディーで、イベントの内容も細部も異なるのだが、崩壊過程のイベント順序だけは一致している。
すなわち、①美嘉、彼氏発覚→②蘭子、歌が苦手を咎められる→③くるみ、暴れるだ。
しかし、その細部は①と②で大きく異なる。
原作小説で「①美嘉、彼氏発覚」に制裁がなかったことは、先に記した通り。
「②蘭子、歌が苦手を咎められる」についても、原作では
と、ゆうが蘭子に苦言を呈しても、ダメージらしいダメージが通っている様子がない。
翻って、劇場アニメでは「南さんさ、苦手って思うなら、練習すればいいじゃん。」の直後、音声ガイドでも「蘭子たちの顔がこわばる」とはっきりナレーションされている通り、明らかに蘭子に(も)ダメージが通っている。
そして「③くるみ、暴れる」に至って、原作小説と劇場アニメで、ようやく軌道が同じになる。
このシーンの直前、くるみが暴れ、スタッフに連れていかれたところに向かおうとしたゆうの手をバシッと音を立てて掴み、「行ってどうするの!」と蘭子。「くるみちゃんと話さなきゃ。明日も収録あるんだよ?」とゆう。
「話さなきゃ」、これだ。
劇場アニメ版では
①美嘉、彼氏発覚→「彼氏がいるんだったら、友達にならなきゃよかった」→美嘉は以後、笑わなくなる
②蘭子、歌が苦手を咎められる→蘭子たちの顔がこわばる
と来ての
③くるみ、暴れる→「くるみちゃんと話さなきゃ」→イベントX。
もちろん蘭子の制止でイベントXは発生しないのだが、
このイベントX、「くるみを"説得"」が発動していた場合どうなったか。
いままで舌鋒で美嘉と蘭子を曇らせてきたゆうが"説得"してしまえば、既にメンタルが臨界点を迎えているくるみは超高確率で再起不能となり、東西南北の友情は修復不能となり、『トラペジウム』BAD ENDとなるだろう。
つまり、「彼氏がいるんだったら、友達にならなきゃよかった」があることにより、東ゆう友情破壊三段活用コンボが仮想的に立ち上がり、もし3発目が炸裂したifでの悲惨さ・修復不能具合が強調されるという、このような構造だ。
伴って導かれる解、蘭子の調停
この流れを承知すれば、蘭子の「行ってどうするの!」がひときわ輝きを放ちだす。ゆうが行ってくるみと衝突したなら、その瞬間に東西南北が完全壊滅するのは火を見るよりも明らかだからだ。
更に、炸裂→炸裂→不発となった東ゆう友情破壊三段活用と異なり、華鳥蘭子の調停は不発を繰り返し、ここで初めて有効打となっている構造も実に美しい。
翁琉城での帰り道、ゆうの言葉への不満をぶつけた美嘉に「まぁいいじゃないの。東さんも悪気があった訳じゃないんだし…」と取りなした蘭子は、しかし特に成果を得られなかった。
美嘉の彼氏が発覚した際、泣きじゃくり謝る美嘉に「お付き合いされている方がいるのはいいことじゃない。羨ましいくらいよ?」と取りなした蘭子は、しかし即座にゆうの舌打ちをもって拒絶され、「彼氏がいるんだったら、友達にならなきゃよかった」を招いてしまう。
冬フェスの帰り、アイドルを辞めたがるくるみに「わたくしたちは色々な運命が混ざり合ってここにいる。こんな経験、もう一生できないかもしれないわ。」と取りなした蘭子は、「南さんの夢、それ本当にこの生活をしてたら叶うの?」と問い返され、「…………わからない……」と言い負けてしまう。
しかし、「行ってどうするの!」だけは、それだけは初めて成功し、東ゆうの暴走を止めることができたのだ。
そして"「③くるみ、暴れる」に至って、原作小説と劇場アニメで、ようやく軌道が同じになる。"と書いたが、実はセリフは異なる。
原作小説の「行ってどうするつもり?」に対し、劇場アニメでは「行ってどうするの!」だ。
この変更もまた、このシーンにおける事態の深刻さと蘭子の本気度が一段と引きあげられている傍証となるだろう。
劇場アニメ版『トラペジウム』において、観客には特に説明無く、"解"――TRUE END――が叩きつけられる。本来一回性のものである映像パッケージにおいて、それは当たり前の話だ。ことによってはそれが「理解不能」「ご都合主義」「薄っぺらい」「説明不足」と評されているシーンも多い。
しかし、補助線を引くことにより、そこに至る理路を見つけることができるところもまた多いのだ。このように。
こんな"原作改変"は無数にあるし、それを見つけることでいかに練り上げられた"アニメ化"であるかが理解る。本当に懐が深いアニメだ。
結論
だから、「彼氏がいるんだったら、友達にならなきゃよかった」必要性が出てくるし、華鳥蘭子は作中随一の本気度で東ゆうを行かせなかったのだ。
……なんだこれ。灘中の幾何か?
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