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誰もが経験する“死”について

祖父の葬儀、私は一滴も涙を流すことなく終わった。人の心がない冷たい人間だと言われてしまった。それは違うんだってことを言い返したかったけど、すぐに言葉がまとまらず言い返せなくて。だから私はダラダラとnoteに書き綴る─────

あなたは“死”をどう捉えていますか

【初めて経験した家族の“死”】

先日、一緒に暮らしていた祖父が亡くなった。祖父は徐々に弱体化はしていたもの元気だった。普段の生活と変わりない土曜日の朝を過ごしていたが、死は突然にやってきた。祖父の84年の人生に、強制的にシャッターが降ろされた気持ちだ。苦しみながら搬送される祖父の姿は、好きだったからこそ直視し難いのが現実であった。そして救急車に同伴した父から母の携帯に「心肺停止」「延命措置はするか」と連絡が入ったような、気がする。もう…終わった………………私の頭はもう真っ白。だから、もうどんな連絡が入ったかも正直覚えていない。数分後、息を引き取ったと知らされた。受け入れられなかった。私がこの家で1番の年下ということもあり、祖父と過ごした時間が誰よりも短かったからこそ誰よりも辛かった。もっと何か祖父に出来ることがあったはずだ。とにかくその時は受け入れることができなかった。
しばらく経った後、祖父は白い布に包まれて家に帰ってきた。「ああ本当に死んだんだな」。もはや頭にはそれしかない。声をかけても祖父はもういつもの温かい笑顔を向けることはない。静かに目を瞑っていた。祖父が7人兄弟の長男だったこともあって、祖父母と両親と私たち姉妹の6人は代々住み継がれている家に住む。また、小さな部落のため20世帯のほぼ全家の人が我が家に来る。そのためこんなご時世にも関わらず、訳が分からなくなるほどの人間が我が家に押しかけた。私はお茶出しや接待を受け持ったのだが、嫌だった。近所の方々はまだしも、祖父の兄弟は強気で傲慢な人しかいないからだ。祖父は寡黙で口下手ながらも優しかったのに。ちょっとしたミスにすぐ口を出す声が大きい男、出しゃばって人の気持ちも考えず何でもかんでも話す女……やめてくれ。見てるこっちが恥ずかしい。どうでもいいや。
もう勝手にしててくれ。

【お通夜の日】

2日後、お通夜に向け納棺が自宅で行われた。遺体に入れ歯を入れてもらったのに躊躇なく口周りを力強く拭く祖母には申し訳ないが笑ってしまった。前歯見えたやろがい。私たちは祖父に白足袋や脚絆、手甲などを身に付けさせた。また、私が大好きなザ・おめでたズの楽曲『三途のリバーサイド(https://youtu.be/hNPtzHVo1ts)』には「サコッシュに六文銭」というリリックが出てくる。サコッシュのような頭陀袋に紙に印刷された六文銭を入れる光景を初めて見ることができた際には、1人で静かに興奮していたことをよく覚えている。
そんななか、私の周りはみんな泣いていた。
でも私は泣く気にはなれなかった。

なぜだろう

自分でも分からなかった。その時、実の父の遺体を目の前にした父、泣かない。それだけは今でもよく分からないままである。

納棺の数時間後、葬儀場でお通夜が催された。私は一般弔問の受付を担当した。まあこれもどうでもいい。その後家族葬で執り行われた。死化粧をされ、棺に入っている祖父の顔を見るとみんなか顔をぐしゃくしゃにして泣いていた。それでも私は涙が出なかった。父も。ニコチンが足りてなかっただけなのかなって思った。未だに真相については知らんけど。

【火葬、そして収骨。】

翌日。火葬、収骨。骨箱を持った。自宅立ち寄りの際、父は集まった近所の方々に対してスピーチをした。「親父は文字を書くのは苦手でしたが、汗をかくのは好きでした」。誰がうまいこと言えと。後々父に聞いたところ、「文字が書けないなら汗をかけ。汗をかけないなら恥をかけ。」という言葉から引用したらしい。家でずっとひっくり返って寝ている人の口から出る言葉とは思えないな。そして、スピーチの途中、遂に父は泣いてしまった。それでも私は涙が出なかった。その後、斎場へ行き、祖父の入った棺が火葬炉へと運ばれるのを見送ってから、寺に行き、また再び斎場へ行き、骨になった祖父を箸で骨箱へ入れた。

骨を見たとき、私はウルっと来た。
これこそおじいちゃんだと思ったからだ。

【着ぐるみ】

息絶えた時点でその人は完全にこの世からいなくなったと私は捉えている。たとえ遺体が残っていても、だ。私にとって遺体は着ぐるみたいなものだと考えるからである。天界にいる本当の自分が、この世に存在する人間の体を適当に選んで使って動いている。なぜかそんな感じがする。そんな感じしかしない。だから涙が出なかった。もうこれはおじいちゃんじゃないと思ってしまったから。だから遺体に触れることもできなかった。死んだ途端、何だか見知らぬ他人の遺体・物体になったような気がして触れることはできなかった。だがしかし骨だけはおじいちゃんだと思えた。それなのに骨を見る周りの目は乾いている。血は繋がってるはずなのにそこの感性は違うようだ。少しウルっときたものの、やっぱり涙はこぼれなかった。


【わたしなりの“死”に対する考え方】

みんな“死”を怖いものだと
決めつけているのでは?
そんなことない。私はそう思う。

私の大好きなPixar映画『リメンバー・ミー[Coco](https://www.disney.co.jp/movie/remember-me/about.html)』は死後の世界「死者の国」が色鮮やかに描かれている。舞台はメキシコ。私はこの映画を見てから、死に対して怖い感情を抱くことはなくなった。国が異なり考え方は違ったとしても、死後の世界はこんなにも楽しい。そして何よりもこの世にいる人たちから忘れられなければあの世での2度目の死(=本当の死)は起こらないからだ。だから私が生きている限りおじいちゃんは死なない。だってずっと忘れないからね。そして後世に語り継いでいけば、おじいちゃんはずっとずっとあっちで元気に暮らして、いつかそっちに行く私たちを待っていてくれるはず。きっとそうだろう。

人生はまだイントロ
死はただの《セカンドライフ はじまりの号鐘》

ぜひあっちでの暮らしを満喫してほしい。好きなことをいっぱいして、大いに楽しんでほしい。

おじいちゃん、今までありがとう。
場所は違えどこれからもお互いがんばろうね。

ずっとずっと 忘れないよ。


祖父の“死”から約1週間が経った今
耳の遠かった祖父の代名詞とも言える
大音量のテレビの音が聞こえなくなった代わりに
我が家には線香の匂いが漂い続ける。


鼻につくほど強烈。

だが

それがまた、心地良い。

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