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その花の名は。

「秋桜は解る。あと、バラもバラだとは解る。
でも、もう解んないな」

苦笑しながら歩く幼なじみの横で、お庭の素晴らしいお宅を指して、あれはすぐ覚えると思う、と名前の通りアメジスト色の花が揺れるのを一緒に見た。

「川端康成だっけ?花の名を男に教えろって言ったの」
「花っていう小題の一節だね」
「曼珠沙華が出てくるよね」
「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きますって言うの」
「それそれ。で、あの花の名前は?」

首を振る。
30年前じゃあるまいし、スマホで簡単に調べられるのだ。

「イチさんは、何年教えてもついに桜と梅の区別もつかなかった」
「あの人は小松菜とほうれん草すら危ういよな」
「だから、毎年教えたの。もう梅が咲いていますよって」

毎年2月になると夫の腕を引いて、蝋梅の薄黄色の花を見せた。
興味のない空返事に笑いながら、ロウバイですよ、と教えては毎年忘れられた。

唐梅、とも言うんですよ。ほら、綺麗ねぇ。香りも好きなの。桜はもう少ししないと咲かないから、咲いたら千本桜見に行きましょうね。きっと屋台出ますから。そうだ、帰りにラーメン屋さん行こうか?

屋台とラーメン屋さんにだけ見事に反応して、帰り道に食べた味噌ラーメンの量が信じられない程多くて、2人して食べ切ったあとしばらく動けなかった。
『さっきの花、なんて名前か覚えてますか?』
『ウメでしょ』
『ロ、ウ、バ、イ』
『俺はラーメンのほうが好きだよ』
『梅と桜くらいは区別つかないと恥ずかしいですよ』
『人生で花の区別がつかずに恥をかいたことないよ?俺』


きっと夫は私がいなくなって2月に咲く蝋梅を見ても、私を思い出すことはなかっただろう。
変わらず、梅と桜の違いも解らず、解っていないことにも気付かず、ラーメンを啜るときにふと思い出したかも知れない。


「貴方はそういうとこ似てないから花の名前覚えちゃうもんね」
「教えられたら、さすがに覚えるね」

あの花のフワフワとした花穂を触らせてあげられたら良かったのに、と少し思う。

「私、川端康成のこの一節がね」
「キライなんでしょ?」

そう。嫌いだ。
別れる男に花の名を教えろ、なんて。

「これは男が書きそうな女だって思った」

別れる男に、花が咲く度私を思い出して欲しい、なんて思うわけないじゃない。

「別れる男に花の名前なんて私なら教えない」
「この流れでそれは遠回しな愛の告白?」
「他意はないな」

笑いながら歩く道は、カサカサと乾いた秋の日和で、肩さえ触れないこの距離を守る幼なじみが、好きだ。

「蝋梅も桜も、俺は区別つくけど見に行こうよ」
「ショウブとアヤメは私も分からんな」
「同じ漢字だよな。そういや」


アメジストセージ。
幼なじみと同じ名前の花。この花が咲く度に実は思い出したりしてた、なんて当分教えなくて良いかな。
1人こっそり笑って、鮮やかな青紫が揺れる横を2人で通り過ぎた。

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