見出し画像

祖父の原稿

 戦前、戦中の時期の自伝を書いた本を二冊自費出版した祖父。戦後の話についての原稿は出来ているが、製本する気力がもうないと言っていた。ある日祖父からまるまるその原稿を託された。
 親族皆が読めるようにこれは世に出すしかないとnoteに記していきます。
 静岡にいる祖父齢99才。コロナでなかなか会いに行けないがまだまだ元気でいて欲しい。孫、頑張って手書きの原稿解読して文字を打ち込んでいきます。

「マラソン人生」
第1話 田子の浦マラソン
  
 昭和49年(1974)5月3日、8時の上り電車に乗るのに静岡駅に入った。たった1人でそれに初めてマラソン競技に出場する不安が重なって緊張しコチコチになった。改札口に近づいたら、30人前後の騒々しい集団に取り巻かれた。横柄な連中が何の用で近づいたのか身を固めていたら、集団の中から小柄で人の良さそうな年配の人が出てきて、「あなた田子の浦マラソンに行きますか?」と声を掛けてきた。初対面なのに随分馴れ馴れしいなと思ったが「ハイ」と返事した。
「俺らはな、清水山公園で毎朝ラジオ体操をやっている、静岡ラジオ体操会というグループでな、走ったことは無い人ばかりだが、田子の浦マラソン会事務から呼び掛けがあって、それなら物は試しだやってみようかと全員が出かけるとこだ。貴方ランナー然と見えるが参加は何で知った?一緒に行こう。」
前から取っている月刊誌(ランナーズ)と話して初マラソン参加にはうってつけの仲間と飛び込んだ。

 長距離走を始めたのは9年前の昭和40年7月着任した電力所の第一回職場運動会が発端である。
 日本国内は前年昭和39年東京オリンピックの余波を受けて運動熱が燃え上がった。会社は丁度組織拡大で、大井川(千頭)静岡(清水)浜松に(発電、送電、変電)を管轄する電力所が誕生した。自分は3年勤めた畑薙発電所から静岡電力所の発変電課補修係長として着任していた。10月になって第一回職場運動会を開催することになった。その最終得点競技の各課対抗リレーのアンカーは、新任官の役目として発変電課は「森脇」として指名された。自分は走ることは小さい時から自虐意識が強く走れないと決めており、又この年になって恥をかきたくないと自意識が強く「自分は走れません。走れないんです。誰か他の人に指名してください」と平身低頭断った。課長は「いやこれは新任管理者の絶対義務だ。職務命令です。」と強い言葉で決めつけられた。これ以上反論することは許されず無言で引き受ける他無かった。
 走れない自虐を持ったのは、年を数えること35年前上長尾尋常高等小学校に1年生入学した秋の運動会にあった。
 身長は組で最小であったが、ヤンチャで怖いもの知らずの性格で入学早々顔を利かせるわんぱくを発揮した。そして意気揚々、母が運動会のために新調してくれた、2本黒線入りのパンツを着けて運動会に臨んだ。
 50メートル実力競走は最終組8人でスタートした。20メートル付近でパンツが落ち出した。慌てて両手で抱え込み不自然な格好で走った。ゴールには皆から数メートル離れた哀れなドン尻だ。これは大ショックだ。勝つ意識のものが真逆になって、自分には走れる身体がない、今まで抱いていた自信が完全にぶち壊れ劣等人間になってしまった。
 以降めぐり来る運動会を呪い、走ることを嫌い、高じて全ての運動を横目で見、自ら殻に閉じ籠る生活となってしまった。
 その前歴のある鈍足の俺に代表選手の指名は全く皮肉だが、サラリーマンという宮仕えの身と観念して課長の命令に従うほかなかった。
 グランドいっぱい熱狂した観衆の中で、最終競技各課対抗リレー、アンカーの自分は3走からのバトンを待った。順位3でバトンを受ける。走れないが闇雲に力一杯駆けて課員の中に飛び込んだ。皆に揉まれて我に返った。それが1位だった。それは総合得点も加算されて電力課が優勝した。夢にも思わなかった電力課の優勝が、まさかの俺の走りで出来たのだ。
 (走れる。俺は走れたんだ。小学生の時のパンツ落下で終生走ることが出来ないと長い間俺に張り付いていたコンプレックスが吹き飛んだ。走れることを実証した。走れるぞ。これから思う存分走りまわるぞ)と年甲斐もなくそっと課員の後に出て感動の涙をぬぐった。
 嘘から出た誠のように、長い長い間苛まれた卑屈から突然解放された悦びが、以降走るきっかけとなったのだ。走れる自信その自負が、ランニングを教えてくれた。それが今の長距離走を始める根拠となった。
 1965年代(昭和40)、ここ静岡ではまだまだ走る人を見つけることは出来なかった。そんな町中を自分だけが走っていると家族が「みっともないから家のまわりで走るのはやめてくれ」と苦情の旋風にあったが、走りに凝り固まって自分には(馬の耳に念仏で、毎朝夜明けを待っては走り出した。町内から狩野橋を越えて西ヶ谷運動場、遠藤新田と新東名高速道路まで折り返しと、走行距離を伸ばしてきたが、自己流では駄目だと気付いて、月刊誌(ランナーズ)の購読となった。
 ランナーズで田子の浦マラソンを知る。走りに自信がついて試すのに良いチャンスと申し込んで今日の日になった。途端に頼もしい仲間が出来た。混み合う電車の中でも傍若無人に周囲を圧する自慢話や歓声に突き上げられて、縮んでいた胸が膨れ上がってきた。予期せぬ体操会との奇遇が初めてマラソン大会に出る俺に強い度胸をつけてくれた。最高の気分になる。
 東田子の浦駅で電車を降りた。初めてのホームに立って雄大に鎮座する富士を見直す。
 駅を出て100メートルも行かないうちに、海岸通りと呼ばれている県道380号を横断して進むと、松の木立をいっぱいに浴びた小山のような防波堤に突き当たった。その土手下に延命地蔵尊が建っていた。何を祈念したのか皆が近寄って手を合わす。この堤の上の大幅な頂きがコースとなっていた。その先は沼津の千本浜まで延びているという。
 富士山、愛鷹山、裾の広がりその先に駿河湾、三保の松原をを見まわした。

    田子の浦 うち出て見れば 白妙の
    富士の高嶺に 雪はふりつつ

を実感した。
 大会のスタートは堤の上にあった。種目は8km、5kmの二種。年齢別で59才以下から56才以上に分かれている。自分は初めての走りだから5kmに申請した。
 スタートの雰囲気に馴染むのに時間がかかった。胸騒ぎが激しくなってきた。皆の顔が強張って見えた。突然勝谷さんが「そんなに固くならないで。入賞できる人は増田さんくらいだ。ゆっくり走って完走することだ。」とやじってくれて気が楽になった。
 5kmがスタートした。コースに並走している海岸に、白い小波を立てて打ち寄せる自然が足を速めてくれた。気持ちよくひた走った。折り返して復路を走り始めたところで増田さんと顔が合った。これは面白くなった。体操会で最も期待されている人より速いと気付いて一目散に走り出した。すぐにゴールが来た。アーチの下に駆け込んだ。待っていたとばかりにゴールの人に抱き付かれ、数字2のカードを首に掛けられた。
 2位入賞となった。体操会仲間では入賞者は1人もなく、自分1人だけ2位受賞者で、会ったばかりの仲間の中へ自分の存在を確たるものとした。

 1975年(昭和50)9月1日。田子の浦マラソン参加のメンバーを中心に静岡走ろう会を立ち上げることになった。
 会長はもちろん発起人の勝谷寅三(60才)理容室太田町。副会長佐野徳太郎(72)ゴム製品販売業横田町。 副会長酒井仙太郎(60)不動産鑑定士音羽町。会計青島敏夫(56)木工業新通1丁目。指導酒井国夫(40)理科大卒橘高校教員馬渕3丁目。庶務川村勇(52)丸大木材北安東4丁目。他に委員4名。監事1名とラジオ体操会のメンバー(但し酒井先生は田子の浦マラソン以降入会)。事務所は勝谷寅三宅として静岡走ろう会の誕生となった。

    規約       

  (名称)
 第一条。本会は「静岡走ろう会」と称する。
  (目的)
 第二条
   1.本会は健康の維持と体力増進並びに親睦、融和を図ることを目的とする。
   2.本会は政治及び宗教団体など一切関与しない。
  (行事)
 第三条
   本会は前条目的を達成するため次の行事を行う。
   1.毎月会員の任意による自主練習を行う。
   2.毎月2回会員による練習を行う。
   3.随時、他の友好会が主催するマラソン会の情報を提供し、招請があればそれに出場参加する。
   4.その他目的達成に必要な行事。
 第四条
   1.本会は健康マラソン愛好者を以って組織する。
   2.本会は事務所を会長宅に置く。
  (会員)
 第五条
   1.本会の会員は正会員及び特別会員とする。
   以下略(全十四条まで)
  (附則)
  1.この規則の施行についての必要事項は委員会において定める。
  2.初年度に限り会計年度を昭和50年11月9日から昭和51年12月31日までとする。役員の任期また同じ。
  3.この規約は、昭和50年11月9日より施行する。
 以上参加者は、最高年齢(75才。明治38年(1905))生まれの谷口幸さんを筆頭に、最年少者細野雅弘(27才。昭和23年(1948))生まれと、半世紀に近い年齢差のある総員55名による健康人によって輝かしい静岡走ろう会を立ち上げた。


 孫感想
 幼い頃祖父が走るマラソン大会にちょくちょく連れて行ってもらった。子どもながらに日々早朝から走ってすごいなぁと思っていた。
 初めて祖父が走り始めたストーリーを知った。初参加の田子の浦マラソンで偶然良い仲間と出会えて良かったなと思いました。それが走ろう会という団体を作るきっかけになったことも。
 大人になり実は僕も健康管理のため走っているが、マラソン大会に参加したことはない。田子の浦マラソンは今でも開催されているようなので、祖父と同じこの大会に人生初のエントリーしてみようかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?