浅瀬で出会う人

 思い出したくない人もいる人生なのか。と当たり前にその人が自分と笑い合っていた時のことを思い出す度、思ってしまう。
 彼女は、優しかった。良い子であった。終電がなくなると、嫌な顔一つせず、なんなら嬉しそうに宿を提供してくれて、美味しいご飯を作ってくれるような子で、面白くて魅力的なものを沢山知っていた。
 楽しそうに生きているようで、その姿は自由に見えた。いつもあまりうまく社会と折り合いをつけられていない様子は、私も同じだったこともあって、会っては社会の悪口を言って、自分たちに与えられているモラトリアム期間を楽しんでいた。
 瞬きほどの小さな瞬間でも、自分の好きな事で、誰かの人生を釘付けにしていると感じていたのがたまらなく嬉しくて、私は歌を歌っていた。
 人もまばらなライブハウスに、ノルマを与えられて歌う。45分間。
 世の中とうまく関われず、居場所も持たない自分が唯一、色付いていると感じていたが、思い返すとそれは自分の痛みを癒す行為だったような気がする。
 これだけではいけない。と胸が騒いだ日に、一生戻れなくなるよ。という声がどこからともなく聞こえてきて、私は音楽を辞めた。
 同時に、東京を去ることにした。
 歌うより家を離れる事が何よりも目的だったのかも。となんとなく奥の方で眠っていた感覚にも気がついた。
 人生というのが、たがだが20年程度でも、一筋縄でいかない傷や因果を産んでしまっているものなのかと、私は、この街の刺激から離れられない。と嬉しそうに忙しがる彼女が言った言葉を聞きながら、そのまっさらさがなんだかとても羨ましかった。
 東京で楽しそうに、彼女は生活していた。様々な人が、おしゃれだね。と形容する仕事をしながら、そういう街に住んでいた。
 私は自分のモラトリアム期間を取り戻す事に必死で、馬鹿みたいに働いた。こんな事もできないのか。と感じる度、自分が見ないようにしてしまっていた生活や傷が騒いで、自分の無力さに、甘い菓子パンを口いっぱいに詰めて、もぐもぐ口を動かしながら、まだ終わらない仕事と、どうやっても苦しい未来のことを考えて、真夜中にぼろぼろ涙を流しながら打ちのめされて、だけど次の日には笑っていた。
 何度も何度も去なした痛みは、いつか感じなくなって、平気になって、いっそのこと死んでしまいたかったのだが、なんだか死ねなかった。

 彼女は結婚して、今は、離婚を考えてると言った。
 欲しいものや、おしゃれな街に住み続ける事の為に、おばあちゃんの形見の指輪を売ったのだ。と久しぶりに会った彼女が言った瞬間に、へえ。と言いながら、私は誰と話しているのかがわからなくなった。

 またしばらくして、彼女に会うと、離婚して、働いてみたかった職場で無給で働くと言っていた。おばあちゃんの形見を使って買ったその生活が不必要だと感じられたのだと澄んだ表情で、吹っ切れたように話していて、少し怖くなった。

 それから、少し距離を置いていた彼女が、その仕事からも解放されたくなったと言い出して、その仕事を辞めて、働いていた先で出会った男性と、瞑想の旅に出る事にした。と言った。その男性は自分の都合で犯罪に手を染めていた人だったので、やめたほうがいいよ。と自分に向けるほどの強い言葉を、初めて彼女に発すると、彼女は、色んなものを捨てなければならない中に、あなたが入っているとは思わなかった。と言った。

 見たいようにしか世界は見えないし、世界の本当のあり方なんて、本当は誰も興味がないのかもしれない。
 
 彼女に似た子が、また私の生活に現れて、目の前でぼんやりとした顔で、持論を語っている。
 と同時に、誰かの世界に養われながら、その誰かを否定するのは、無様な気持ちにならないのかな?と彼女のことを眺めている。
 言葉は透明で、だから毒にも薬にもなってすうっと染み込んでしまう。

 何をしにここにきたんだろう?と横目で様子を伺いながら、笑い声に耳を傾けて、足を入れてみる。サラサラと泡が立って、足が埋まっていく。温度に慣れてきて、ああ気持ちがいいと全身が入ってしまう。
 私は身を任せて、足の指が床に触るのを確認している。
 一緒に来たはずの彼女は、いつの間に、どこに、行ったのか。
 ここでの色んな事を話したかったのに、もう居ない。
 それを、心が少しだけ、まだ否定をしたがっている。
 だけど、自分の思う通りにならないからって、誰かの人生を否定するなんて、そんな事は何があってもしちゃいけない。

 だから、どうか楽しめますように。と、祈りだけ残して。
 私は、彼女の世界から心を離脱させる事にした。
 
 
 

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