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祖母の歌集

死んだ父方の祖母と私は似ている、とよく言われる。

部屋をすぐに散らかすところ、柄物の服が好きなところ、4月生まれなところ、旅行が好きなところ、家事が大雑把なところ、それでいて頭の回転は早いところ、そして、誰に頼まれるでもなく物書きをしているところ。

祖母は農業と子育ての合間に短歌を詠むことが趣味で、私が生まれるずっと前から野菜を作り、果物を作り、歌を作っていた。新聞の歌壇に投稿したり、歌会の仲間と集まって詠んだり、自費出版で歌集を編んだりもしていた。いまで言うZINEである。

私は幼いながらに「おばあちゃんの趣味」が「たんか」というものだと知っていたけれど、なんかあんまり格好いいものだとも思えなかったし、なぜそんなに熱心に「たんか」をやっているのかわからなかった。
なんなら、自分でお金を出して歌集を作るなんて、なんか意味あるのか?とさえ思っていた。

たまに祖母が地元の新聞に載った自分の歌を恥ずかしそうに見せてくれることがあったけれど、「ふうん」以外の気の利いた感想を言えた覚えはない。

なかには孫である私のことを詠んだ歌もあったけれど、「祖母が自分のことを詠んだ歌」というのはなんだか恥ずかしくて、祖母の目に私はこんなふうに映っているのか、というのがどうにも決まりが悪く、ようは歌の意味も込められた気持ちも理解するには幼過ぎたのだ。

それでも祖母はいつも、新聞に自分の歌が載れば「信毎歌壇」の欄を日に灼けた手で指差して見せ、私に詠んで聞かせた。詠んだあと、決まって照れくさそうなごまかし笑いをしつつ、ちょっと誇らしげだったのを覚えている。

***

祖母が死んだのは、私がもう実家を出た大学生のときだった。

「おばあちゃんが倒れた」という連絡が第一世代のiPhone SEに着電したのは、大学で第二外国語の中国語の授業を取っていたときで、私は机の角に腰をぶつけながら急いで教室を飛び出し、下宿していた安アパートの部屋で最低限の荷造りを超特急でして、駅に向かうバスに飛び乗ったことを覚えている。遅々として進まない大学通りのバスに苛立ちながら、遠く離れた長野の病室にいるであろう祖母のことを想像した。おばあちゃん、え、こんなに早いの?今?これで?

新幹線に乗り、地元の2両しかない電車に乗り変え、やっと病院に着くと、そこにはすでに会話のできる祖母はいなかった。脳の太い血管が切れて、かろうじて生きてはいるけれどもう起き上がることも話すこともないのだという。

ベッドで寝ている祖母の手を取ってまじまじと見た。やっぱり日に灼けていて、爪の周りは黒く色素沈着して、大きくたくましい、紛れもなく労働者の手だった。桃を獲ったり、苗を植えたり、味噌を作ったり、おやきを包んだり、軽トラを運転したりしながら、歌を書き留めたりもしていた手。その手も長く病室に横たわる日々のなかでは日灼けの色がだんだん褪せて、痩せ細り、これ以上ないくらい小さく頼りなくなってしまった頃に、祖母は亡くなった。

私はあまり泣かなかった。葬式で、祖母と同居していなかった他家の孫たちは泣いていたけれど、私には「祖母が死んだ」ということがよくわからなかったのだ。

私にとっての祖母は、洗ったんだか洗ってないんだかわからない手でりんごを剥いて、包丁にそのままぶっ刺して差し出してくる祖母で、洗ったんだか洗ってないんだかわからない手で「“バレンタイ”だから」と2月14日にスーパーで爆買いしたマーブルチョコをくれる祖母で(「正しくはバレンタインだよ」と毎年思っていた)、洗ったんだか洗ってないんだかわからない手で100円ボールペンを取って、チラシの裏や大学ノートに歌を書いている祖母だった。

病室で横たわっていた人も、葬式で横たわっていた人も、なんだか知らない人のように思えてならなかった。

***

あれから10年以上が経って、私は31歳の既婚女性になった。

「祖母のことを1日も忘れたことがない」などど言ったら真っ赤な嘘になるくらいに自分のことしか考えない20代を過ごしたけれど、自分も結婚というものをしてみて、祖母の人生は幸せだったのか、たまに考えるようになった。

農家に生まれて、小学校を出て、自分より成績が悪かった子が女学校に行かせてもらうのに、自分は行けなかったんだ、だからばあちゃんは小卒、と笑っていた祖母。
隣村のこれまた農家の知らない男と、親に言われるがままに結婚することになり、私の実家にやってきた祖母。

嫁いで来た家には若い男が二人いて、「こっちの背の高い、優しそうな人が夫かな」と思ったらそれは夫の弟で、自分が嫁ぐのはがっしりして顔が四角い方の男だと知った時には心底がっかりしたらしい。

その顔が四角い男が私の祖父なのだった(この話はいまだ祖父がいないところで語られる我が家の笑い話だ)。

顔が四角い私の祖父は、家父長制が服を着て歩いているような男である。

「であった」と過去形じゃないのは95を過ぎてもまだ生きているからで、「憎まれっ子世に憚るとはこういうことだ」と私は常々言っているが、「そういう憎まれ口を叩くんじゃありません」といつも母に叱られている。いや、孫に憎まれるような生き方をしてきた爺さんが悪いだろ、普通に。

私はさんざん祖母にも母にも私にもひどい仕打ちをしてきた祖父を「大好きなおじいちゃん」などど言って慕うことはできないし、向こう5年かそこらのうち催されるであろう祖父の葬式で飲む酒はさぞ美味いだろうなと密かに思っている。

昔、祖母が祖父にとんでもない勢いで泣かされた夜があった。台所でテレビを見ていたら、隣の祖父母の居室から悲鳴が聞こえた。それは文字通りの悲鳴で、殺人現場に遭遇した人が出すような「ギャーーーーッ」という声だった。

驚いて見に行くと、祖母が大声を出して泣いている。さっきの悲鳴が祖母から発された泣き声だと気づくのに少し時間がかかった。私はまだ小学生で、人があんな声を出して泣くことがあるとは知らなかったのだ。

「おばあちゃん、どうしたの」
恐るおそる聞くと、祖母は泣きじゃくりながら言った。

「ばあちゃんだって死にてえやぁぁぁっ」

一瞬、私は意味が理解ができなかった。だいたいにおいていつも笑っている祖母が、恥ずかしそうに短歌を見せてくる祖母が、泣きながら「死にたい」と言っているということが、すんなり頭に入ってこない。

横に突っ立っている祖父は、決まりが悪そうに「俺も言い過ぎた」とボソボソ言っている。爺さんがおばあちゃんに何かひどいことを言って泣かせたのだ、と察した。私は祖父を睨みつけた。
その頃はまだ「家父長制」とか「モラルハラスメント」とかの概念も言葉も知らなかったけれど、なんとなく「こいつが元凶である」ということはわかった。

あの夜の出来事あたりから明確に、私は祖父を嫌うようになった。そして、そんな祖父と夫婦をしている祖母も、祖父には逆らわない父も母も、その孫である自分のことも、やっぱり嫌だと思った。この家。こんな家。私はいつか絶対この家を出てやる、と。

***

先日久々に実家に帰ったとき、ふと思い立って母に「おばあちゃんが昔書いてた短歌の本って、まだあるの?」と聞いてみた。時代は流れ、世の中ではいま、短歌が流行っている。私の周りでも歌を詠む若い人が増えてきて、ふうん、流行っているのだな、と思っていたところだった。そういえば、おばあちゃんはどんな歌を読んでいたのだっけ。全く思い出せない。

母は「あんたがそんなこと言い出すとはねえ」と言いつつ、物置の本棚まで一緒に探しに行ってくれた。祖母の歌集は、物置の本棚と本棚の間のちょうど手が届きにくいところに置かれていて、母と私でわっせわっせと本棚をずらし、頑張って隙間に手を伸ばしてようやく取り出すことができた。

母は、取り出した歌集を私に手渡し、「ここで誰にも読まれないより、あんたが読んでくれたら、おばあちゃんもきっと喜ぶよ」と言った。私は会社員として食い扶持を稼ぎながらネットの片隅で細々と文章を書いていて、祖母の8人いる孫のなかで唯一、祖母と同じ「なにか書いてる人」になっていた。

祖母の歌集を手にしたはいいものの、なんだかおいそれと読むのは憚られる気がして、しばらく開けずにいた。もうこの世にいない身内が心の内を詠んだ歌を読んだら、どんな気持ちになるのか少し怖かったのだ。

そんなふうにまごついているうちに何ヶ月かが過ぎたころ、NHKの連続テレビ小説で『虎に翼』が始まった。日本で初めて女性として弁護士、判事、裁判所長それぞれを務めた女性の話。毎日楽しみにしてドラマを見ながら、祖母のことを思った。祖母が生きたのと同じ時代。主人公のモデルの女性が現実世界で裁判所長になった頃、長野の田舎の農村で暮らす祖母は、どうしていたのか。

もし祖母が女学校に行けていたら、祖父とは結婚しなかっただろうし、私はこの世にいなかったのだろう。でも、祖母はあんなふうに祖父に泣かされずに済んだかもしれない。祖母があの時代に、女として生き、女として苦しみ、好きでもない男と添わされた結果として、私がいる。

女って。私って。女って。人生って。なんなんだろうね、おばあちゃん?

私はいま、祖母の歌を読まなくちゃ、と思った。積読になっていた歌集を持って、カフェに行った。夫がいないところで、私一人で読むべきだと思った。

カフェの席に座り、歌集を1ページずつめくる。いまは梅雨で、空いている窓から雨の匂いがする。私は一つ一つの歌をじっくり読んだ。暮らしのこと、天気のこと、畑のこと、父と母(私の曽祖父と曽祖母)のこと、子ども(私の父や叔父や叔母)のこと、嫁(私の母)のこと。祖母が「おばあちゃん」でなく誰かの子どもで、誰かの母親で、一人の労働者で、女だった気持ちを詠んだ歌たち。

採れたアスパラの輝くみどり、バーゲンセールでブラウスを買って嬉しかった気持ち、雨の夜にひとりで夫を待つ心細さ、ささくれが痛かったこと、母が昔縫ってくれた綿入れを捨てられないこと、楽しみにしていた旅行のことーー。

歌を一つ読むごとに、私の知らない祖母の側面が浮かび上がる。
「おばあちゃん」ではない、一人の女の人の人生の、一瞬一瞬が頭の中に流れ込む。

昭和から詠まれている歌たちは、詠まれた年ごとに並んでいる。
「平成5年」のページまで来た。私の生まれた年だ。

私のこと、詠まれてないかなと少し期待する。どきどきしながらページをめくると、こんな歌があった。

「哺乳瓶しゃぶりてねむるみどり児のその手に掴め大き仕合せ」

体温が急に上がるのがわかった。祖母には孫が8人いるけれど、平成5年に哺乳瓶をしゃぶっているのは私しかいない。これは私を詠んだ歌だ。

「哺乳瓶しゃぶりてねむるみどり児のその手に掴め大き仕合せ」

もう一度じっくり読んでみる。涙が滲み出てきて、カフェの店員さんにばれないように手でのばした。生まれてすぐの私が眠っているのを横で見ている祖母の顔を想像する。うまくできた歌を見せてくれたときと同じ、笑った顔。私の知っている、私のおばあちゃん。

あんな男と40年も一緒に生きて、お金もたくさんはなくて、でも子どもたちは貧乏にならないように大学に行かせて、減反や買い叩きに振り回されながらも畑に行って、それでも歌を詠んでいた人。歌人と呼ばれるようなことはなかったけれど、詠まずにおれなかった人。

いまならたくさん歌の感想を言ってあげられるのに。私の文章も読んでほしいのに。結婚式のことも詠んでほしかったのに。式場を予約できる日が一日しかなくて、その日は偶然おばあちゃんの命日だったんだよ。あれ、絶対おばあちゃんが仕組んだよね。 おばあちゃんは結婚したとき、どう思った?つらいことは、嬉しいことは、どうやって歌にしたの?話したいことも聞きたいこともたくさん、いまならたくさん、あるのに。

祖母の人生が幸せだったのかは、私にはわからない。死にたい夜も、確かにあったんだと思う。
それでも、祖母の人生の先には、祖母が「大き仕合せ」を願った私がいて、私は実際けっこう幸せに生きている。部屋を散らかし、柄物の服を着て、雑に家事をしながら、誰にも頼まれていない文章を書いて、幸せに生きている。

私は「家」を信じていない。家父長制は滅べばいいし、墓参りも熱心にはしない。でも祖母に話したいことがあるとき、これからは祖母の歌集を開くと思う。私に似ている超かっこいい女が作った歌集を。



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