のみこめちゃう

髪を束ねるゴムを手首に巻いたまま眠れるようになった。昔から絆創膏やマスクなど、なにか体に張り付く物質が嫌いで人目を盗んでは剥がしていた。コロナによってマスクは慣れてしまったし、左手首に巻いたゴムも、今はもうあまり気にならない。そんな自分の成長が少し、いや、かなり、さみしい。

適応してしまったんだな、と思う。適応できてしまった。自分の中の「異常」に脳が耳を貸さなくなっている。そうして、あったはずの「異常」が情報と対策に埋もれて「通常」になっていく。できなかったことができるようになっていく。人と天気の話で盛り上がれるようになった。後輩の帰り道を案ずるようになった。Suicaで改札を通れるようになった。家族以外の人とごはんを食べれるようになった。先天的な違和感も、それによって産まれた後天的な卑屈さも、なんだか全部飲み込んで社会で生きていける自分がいる。苦いのを押し殺して笑っていられる自分がいる。

それは、さみしい。とてもさみしい。それが大人になるということなら、俺にはまだ早い。ありきたりな20代の主張だけどね。

8歳で空気を読んで図書室にこもった俺は、あまりにも適応が早すぎた。そんな毒杯は飲み込まなくてよかった。身体に染み渡らせなくたってよかった。そんなことしなくてよかったんだ。そんなふうに振り返りながら現在進行で杯を飲み干す俺はいい加減馬鹿だと思う。…いやいやこれはただのナルシズム。蛇足も蛇足か。

飲み込まないでいる人と最近、友達になった。嬉しい。嬉しくて、しんどい。良薬口に苦しというが、あれはもう劇薬超えてただの毒。触れ合う毒だよ、俺にとって。飲まねえなこいつと思えば思うほどに、フリーパスな喉をもつ自分が揺らいでいく。飲み込めなかった自分がどんどん薄らいでいくのを自覚してしまう。さみしいですね。俺はどうしようか。

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