悲しくなっちゃう

小学生の時は「おとなしいね」と言われていて
それは1人で黙々とパズル解いてたり
休み時間でも本を読んだりしてたからなんだけど
中学に入って
同じようにしていたら
お前は感情がないのかって部活で馬鹿にされて
あだ名が「アンドロイド」になって
ただ淡々とやるだけじゃ
成功しても
失敗しても
笑われるばっかりで
高校に上がって
まっすぐ出した感情が
「学校に行けない」で
そしたら今度は大人に
真面目にやれって
死ぬ気でやれって
甘えんなって
言われて
そんな感覚なんて言い訳だから
屁理屈だから
ちゃんと要領よくおとなしくレールに戻れって
言われて
でもできなくて
前はできたはずなのに
わかんなくて
情動を無視した行動やれなくなって
でも周りの大人は
馬鹿なこと考えていないでやることやれって
手を替え品を替え言ってきて
結局たおれちゃったんだけど
大学に入ったら
久々に同級生と話していたら
みんな情動で動いてて
情動にまっすぐで
身を情動に任せてて
おいしいものを食べて笑って
旅行先のきれいな景色を見て感動してて
身近な人間関係にムカついてて
毎日のタスクに嘆いてて
俺もこっちでよかったんじゃねえか
って気持ちと
許されてていいなあ
って気持ちが同じくらい湧いてきて
だからそういう情動で進める人を
好きになったり羨ましく思っていたりして
そういう方向に行きたいと思って
同じ言語で話せるよう自分を強制していたら
急にみんな進路とか言い出して
将来何で食べていくとか
今のままは続かないとか
言い出して
俺・私はもう子どもじゃない、とか言い出して
情動だけをガソリンにし始めた俺を差し置いて
そんな部分を彼らは要領よく切り離して
現実をドライに計算して
みんな大人になっていった。
そして、今さら情動で動く俺を
鼻で笑うようになった。

どうして、こう、ズレるかね。どのステージでも周りと半音ズレてしまう。いじめとか不登校とかを経験した不遇な過去、みたいなのはよく聞く話なので割とどうでもいい。それよりも注目すべきは、十数年間、いまだに一定の間隔でズレを生み出している点だ。才能かもしれない。

軸を周囲に設定しているからブレる、と言われるとある期間まではその通りと言えるが、操縦桿に飛び込んだここ数年に明確なズレと何か共通の感情を抱くことの説明がつかない。怒られることが確かに昔は怖かった。今はその恐怖がほとんどない一方で、強烈に「悲しく」なってしまう。寂しい、よりも、悲しい、が近い。残念、みたいな感じがする。怒られることは、つまり取り残されることか。褒められることも、取り残されることかもしれない。物理的にも感覚的にも、取り残される状況に悲しくなることがすごく多い。いろいろなところから、「取り残される」を感じては悲しくなっている。そういう性格の人です、はい。おわり。そういや「怒り」じゃないんだな。

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