「抑圧」だなんて言わないで
衝動性、みたいなものを、抑えつけて生きてきたという自負がある。
ほしかったゲームはハードから買ってもらえなかったし、食べたいおかしはアレルギー持ちの家族がいる前では厳禁だった。そうやってひとつひとつ潰されてきたので、欲求を素直に発散することができなくなっていた。
大人の顔色を伺って、求められているものを得意だった算数のように計算して、理性や社会の道理に沿って行動していたら、小学校1年生のころには「大人びているね」と言われるようになった。好きと嫌いの濃度が薄れつつあった時期には珍しく、この言葉に俺は少し顔をしかめていたと思う。
「大人びた子ども」としてやっていける間はよかった。楽だった。けれど数年もすると、それでは立ち行かなくなってくる。子供の目から見た年長者の模倣など、少し押せば簡単に崩壊する。理性や道理よりもまず体が動いていかなかった。それは初めての経験で、とてもこわいものだった。
衝動的な判断でしか体が動かせない。決められた時間に起きて、決められた時間に学校に行って、決められた時間に昼食をとって。そういう定まったものから外れ、起きたい時に起き、食べたい時に食べるという体の反応に、黙って従わざるを得ない空間が、「大人びた子ども」をしている時間より何倍も苦痛だった。そんな自分に慣れることのないまま、どっちにも振り切れない息苦しさを抱えて大人になった。
上記の文章を要約すると、「周囲のせいで欲求を押し殺す人間に成長してしまい生きづらい」となる。確かに、衝動を抑えつけてきた、いや、抑えつけられてきたと自認していた。けれど今日はそんな自分の見え方を否定したい。しんどいと抱える一方で、どうも長いことこの被害者面が気に食わないでいたのだ。
こういった衝動であり情動であり行動を、外の世界に向けられなかったのは、抑えつけられたからではなく度胸がなかったから。この際、もうそう言い切ってしまおう。
小学校低学年から、ことあるごとに頭で唱えていたワードは「能ある鷹は爪を隠す」だった。勉強ができて付き合いの悪かった俺は、「いかにしてまわりに能力を隠すか?」を考えて毎日を過ごしていた。恥ずかしながら今もその節はある。恥ずかしい。
まともに自分を晒してしまうとみんなと仲良くやれない。そう考えていた。
ふざけんなや。怖いだけだろ。全力でやって傷つくのが怖いんだ。衝動に任せてオリジナルをして、白い目を向けられるのが嫌だったんだろ。それを「爪を隠す」「周囲の抑圧」なんて言葉でいつまでも誤魔化すなよ。
主張をできる人を見ていると、羨ましいと思う。自分はずっとそれをさせてもらえなかったからと、言い訳を並べてしまう。でも最近、主張をする人の言葉の裏には責任があることに気づいた。俺がずっと主張を避けて、ルールに則った言動をしていたのは、ただ「責任を取りたくないだけ」のそれ以上でもそれ以下でもないのかもしれないと思った。いろいろな人と会うと、そんな自分がただただかっこ悪く見える。もっと責任を持って生きていきたい。
…この思考も逃げかもしれない。特性や原体験を振り返らず、度胸や気合いに転嫁するのも違う?けど過去の自分をいじくることにそろそろ飽きてきているのも本音だ。次にアクションを起こすとして、「仕方がないもの」とするのか、「飛びこめば変えられるもの」とするのかでは、やっぱり後者によって脳を騙す方が良い気がしている。
なんだか内容が二転三転している。こんな言い訳を付け加えたくなっている。この文章すらも責任取りたくないのか俺は…。修行。
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