人間のダサさや醜さは野菜のアクみたいなもの

人間誰しもダサいところや醜いところがある。変なことにこだわったり、他人の成功に嫉妬したり、小さなことで怒ったりする。

それらは野菜のアクのようなもので、野菜に本質的なものであると思うし、むしろそれ自体が旨味であるような気さえする。

アクがない野菜は、味も薄い。

野菜の煮汁から完全にアクを取ってしまうと、当然だが味気ない。むしろ、どこからがアクで、どこからが旨味なのか、それを厳密に分けることはできない。だから、アクを憎んでも仕方ない。人間は、ダサくて醜いものであり、それが人間の良さである。

落語家の立川談志師匠は、落語は『人間の業』の肯定だと言っていた。業とはつまり人間のダサさや醜さであるが、これを肯定するのが落語の役割の一つであると考えた。

確かに落語では、アホ、見栄っ張り、知ったかぶり、が大量に出てくる。これは人間のダサさの主要な三つである。そして彼らがやんやすることで物語が進んでいき、面白い。アホがよくわからないことを言い、知ったかぶりがそれに適当な解説をつけて肯定し、見栄っ張りがその出鱈目な理屈に則って行動する。人間社会の縮図である。

ここからアホ、見栄っ張り、知ったかぶりがいなくなって、クレバーな人間だけになったとしたら、落語は全く面白くない。落語に外資コンサルが3人で出てきて、起きた問題をフレームワークを使って分解、KPIを設定し、スッと解決したら、つまらん!!!

人間のダサさを、笑って、肯定していく。それが落語の仕事であり、笑い全体の仕事であるかもしれない。

自分はツッコミ側の人間なのだが(もちろん同時にツッコまれる要素が大量にあるボケた人間だが)ツッコミは否定ではなく、この人間臭さと旨みを『見つけてもらう』ためにしている。

『なんで同じ話を何回もするんだよ!金曜ロードショーの魔女宅くらい再放送されとる!』というツッコミは、同じ話を何回もしてほしくないから言っているわけではなく、むしろ、何回もすることが面白いので指摘しているのである。

世の中からずれている、標準と違う。これはJA農協的には困るかもしれないが、人間的にはむしろ美味しい。捻じ曲がった人参🥕として今日も生きていきましょう。

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