『ドゥルーズABC全注釈』B-Boisson 飲むこと

#4  飲む/生成変化

食欲とは違う感覚で、何かを飲むということは、小さな苦痛に似ている。自分の体内に異物を無理にでもとりいれ、自分の情動と体力が変化をきたすのを受け入れるからだ。その効果が快楽であろうと嘔吐であろうと、口から入り込んでくる異物はことごとく人の情動にかかわることになるのである。ハーブ、煙草や酒、それにドラッグなど、口から飲み込むものはひとつの欲望であることにちがいはなく、小さな苦痛は、それら欲望を誘い出すためのサインとなるのである。だからこそ、苦い顔しながら、人は異物を口に運び続ける。

このような自己享楽(セルフ・エンジョイメント)に敏感であるはずのドゥルーズは、この小さな苦痛の連続である酒とドラッグの取扱いについて、単純に受け入れるようなことはしない。なぜなら情動を大きく変化させているアレンジメントの要素の中に、これらの苦痛をともなう「飲み込むもの」は、文字どおり毒と薬を混在させているからだ。生成変化を無理にでも肯定していけば、酒やドラッグも生成変化にほかならず、その上ドゥルーズ自身も酒の生成変化を楽しみながら、書いているのだから、もはやいつもの情動の観察者とはずいぶん面持ちがちがうのである。

酒やドラッグがもっている生成変化をおおいに評価しながら、今度はこのようなものが「薬学-分析においてガラス化した癌の身体を作りあげる」というふうにドゥルーズは警告のごとく述べはじめる。肯定も否定もできないこの宙づりぶりは、どうだろう? インタビューの中の「最後の一杯」にたどりつく話には深淵な意味などはありはしない。やめようにもやめられず飲み続ける人がそこに描かれているだけなのだ。

しかしこのように文章が両義的になる瞬間こそ、ドゥルーズという書き手のなにものかが溢れ出してしまうときではないだろうか。フーコーがドゥルーズの書物に「倫理の書」という言葉を贈ったのは、それがたんにミクロなファシズムへの防御マニュアルであるばかりでなく、こんなふうにアルコールについて語るような、ドゥルーズの口ぶりがあるからではないだろうか? その書物の中で、複雑に概念がからみあう大伽藍をさまよううちに、ときおり天窓から光が入り込むがごとく、親密な肉声が聞こえてくる。それは非の打ちどころのない成功者や、正論の権力者、ましてや善人のものでさえない。かつて哲学がまるで正統な人類の見本をみせつけたようには、もはやドゥルーズは語らないのである。落伍者、失敗者、どことなく自堕落なもの、繰り返しまちがってしまうもの、ほんとうは誰しも普通にもっているはずの、小さな自己嫌悪から自嘲的な笑いまで、その「どうしようもなさ」がドゥルーズの言葉から溢れてくる。そのくせその言葉には、隔絶した神学校の中で崇められていたものが、突然自分の寝室で横たわっているほどの唐突な驚きをはらんでいるのだ。この驚きこそあらゆる希望の失われた堂々巡りの破壊のプロセスにかならずや脱出の道をうがち、逃走の線をはりめぐらす希望のたくらみであるといえるだろう。

それでは「飲む」ことに関する小さなクロニクルを書きそえることにする。大酒のみのドゥルーズ像というのは、あまり知られていないかもしれない。しかし『意味の論理学』の中でも、『千のプラトー』の中でも、酒を飲むこと・飲まないことに関する精密な記述があるのは事実である。宇野邦一氏の「ジル・ドゥルーズの戦場」という文章には次の記述がみえる。「『意味の論理学』を書いている頃は『差異と反復』を書いた直後でしたが、もう筆が止まらないと言っていました。そしてアルコールもとまらなかったと言うんです。毎日朝からウィスキーを飲みながら『意味の論理学』を二、三時間書いて、あとはぼーっとしていた、しかし自分のアルコール中毒は肺の病で救われたと言っていました。あんまり飲むと肺の負担になるので飲むのをやめるほかなかったんですね」。ドゥルーズの著作物において抽象機械のめまぐるしい運動をみていると、ときおり生々しい哲学者の日常がかいまみられる瞬間がある。それは私小説と呼ぶにはあまりにストイックで、概念の運動に沿いながら蛍光のようにあらわれるものである。アルコールについて語られる文章もまた、運動競技のごとく揺れ動く概念の、美学的な活動の隙間からこぼれおちてくるドゥルーズのかすれ声で、語られているかのようだ。

一九六九年、『意味の論理学』第22セリー「磁気と火山」では、アルコール中毒となった作家フィッツジェラルドの作品分析をとおしながら、アルコール中毒を分析している。妻のゼルダが統合失調症となりながら、フィッツジェラルド自身もアルコール中毒になっていったという有名な挿話は、ここではあまり問題にならない。むしろ、なぜアメリカの作家が破壊のプロセスに身体を投げこんでいったのか、その経過をたどることをドゥルーズは「アルコール中毒のセリー」と呼んでいるのである。その破壊のプロセスとは、次のように「硬さ」と「柔らかさ」をくりかえしていくものだ。アルコール中毒は素朴な自己享楽ではない。飲むことで時間の性質の変化が訪れる。その変化推移が「硬さ」や「柔らかさ」という感覚となってあらわれてくる。この情動の緊張と弛緩を、陶器の「硬さ」と火山の下のマグマの「柔らかさ」に接続しつつ、ドゥルーズは自身の体験と共に語るのである。アルコールを飲んではいけないと体をこわばらせ、アルコールを飲んでしまったと、酩酊の中で脱力する。彼が動詞の時制表現を問題にするのは、このように感覚としておこる身体的な出来事を 、まさに硬くなったり柔らかくなったりするものとしてドゥルーズ自身の身体が感じているからなのである。それと同時に時は、時計を凍てつかせるように硬直させたり、チーズのように溶けさせて、破壊へのプロセスを刻むのだ。

一九七七年、パルネとの対話『ドゥルーズの思想』においては共感について語られる文章の中に次のような記述が見受けられる。「アルコールからは、それに宿る生を抽出しようと試みる、酒を飲まずに。水だけで酔払うヘンリー・ミラーの名場面を想い出そう。アルコール、麻薬、狂気なしですますこと、生成変化とはこれだ。より豊かな生のために酔払いに=になること」(八五頁)

一九八〇年の『千のプラトー』では生成変化の議論の文脈において、多くの分量でアルコールとドラッグが同一的に扱われて分析されている。第10プラトー三二五頁以降。麻薬はまず知覚を変化させるものとして分子状革命をおこすと記述され、そののち速度感覚の変容によって一時的に〈此性〉をもたらし欲望と知覚は渾然一体となる。しかしこの麻薬の行使を条件づける平面は、極度に硬直的な切片化されたもので成立しており長続きしない。切片化されたというのは、あらゆる環境から切り離されて作動してしまう状態をさしていると、ここでは考えてみよう。やがて出口無しのブラックホールのような存立平面の穴におちこみ、知覚し得ぬものと知覚の猛烈なおいまわしで、せっかく作り上げたはずの〈器官なき身体〉は空っぽに空洞化する。であるからアルコールやドラッグを実際には口にしなくても、それらを飲み込んだ瞬間におこる生成変化の近傍にまで近づいていくということが、生のアレンジメントには必要なのだ。

麻薬に関する知覚の変化を語るこの文脈には、ミショーの名前もあらわれる。麻薬的なもののアレンジメントがアルコールの効果と同じように扱われ、情動の劇的な変化をもたらしながらも、それは失敗に終わることがきわめて技術的に描かれている。たしかにアルコールや麻薬は、知覚の変化を簡単に行使できる。しかし、その変化のスピードはもはや知覚できないような空転をまきおこし、充実身体であるはずの〈器官なき身体〉を空っぽにしてしまうのである。知覚の変化をもくろむ哲学者にとって、麻薬やアルコールは微妙に扱わねばならなかったテーマだろう。いたずらに賞揚することも、その効果の全てを否定することもできないからだ。だからビート・ジェネレーションやカスタネダの名前に触れるときも、その評価はあいまいなものとなっている。彼らが意識の速度と変容をあまりに麻薬的なもので片づけてしまうがゆえに、文章は分裂し肯定的なものと否定的なものが同時にあらわれる。おそらく書簡のやりとりで書いたであろうドゥルーズとガタリがめずらしく意見の衝突をおこしてでもいるかのように読めてしまう。だから『ABC』でミショーに言及しているのは、彼の方法そのものについてのようである。つまり、麻薬的なものの妄想や幻覚を切り離して、物理的な手順や因果関係の効果を分析し、そこでおこる出来事をことごとく暴き出したという方法。しかし、「悪しき感情」のリスクを書きながら、そのすぐそばで身体を破壊してさえも、求める自己享楽を書き連ねるドゥルーズの文章を目にするたびに、彼の隠された戸惑いを見出さずにはいられない。

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