『ドゥルーズABC全注釈』T-Tennis テニス

#52    スポーツの創造すること

長いインタビューの閑話休題といった感じのこの章は、テニスが何をつくりだすかについて語られている。ドゥルーズもテニスにまつわる思い出やフレンチボクシングの経験についてなど、いつもより軽快な調子で語られており、スポーツも芸術や科学や哲学のように創造的に<フォーム=スタイル>を生み出すということが語られていく。

パルネが聞き役となり、このインタビューでテニスについて語られた内容と共鳴している記事が見受けられるので接続してみたい。一九八五年十月、「オートル・ジュルナル」八月号より。「新しいスタイルは、新しい『離れ業』を意味するのではなく、姿勢の連鎖を意味しているのです。そして姿勢の連鎖は、従来のスタイルをもとにして、しかも従来のスタイルと断絶する形で成り立つシンタクスに相当するのです。技術改良は、新しいスタイルに組み込まれ、そこで選別を受けないかぎり、その効力を発揮することはできない。技術改良だけでスタイルを規定することはできないのです。だからスポーツでも『発明者』が重要になってくるわけだし、そうした人たちが質的変化をもたらす媒介者となりもするのです」(『記号と事件』所収/二二一頁)。

より早く走ろう、早く泳ごう、確実に球を送ろうなどと思うとき、我々の身体能力は精密に研究され、経験的に有効な条件も導入されながら、<フォーム=スタイル>というものが改良されてきた。またスポーツ史という歴史的な視野でとらえても、人間の身体そのものも変化してきており、技術改良とは相互に影響を及ぼしながら、展開したのだ。水泳や自転車競技、スピードスケート、スキーのジャンプ競技、などは最近の顕著な例だろう。技術改良とともに身体能力を最大限に引き出すフォームの変遷が見て取れる。そしてそのようなフォームには発明者の個人名がつけられたりもするものだ。身体になにができる?という問いにアスリートは今まで誰もが知らないような、肉体の扱い方をする。そのとき身体の可能性は開かれる。彼らアスリートによって、人々は新しい身体の扱い方に気づかされるのだ。それがドゥルーズが述べているスタイルの発明者であり、身体の可能性の媒介者なのである。

スポーツについて一般的に考えられているのは、自分の肉体を意識のままに操作できるという能力についてである。しかし実際にスポーツをして感じることができるのは、実は適応能力のほうなのだ。ほとんどが外在的な条件や、無数にあらわれてくる障害に、あるいは瞬時になげこまれる環境に、無理なく対応できる適応能力なのである。だからトレーニング=練習とは、できる限り予想されうる環境変化に、身体が無意識で反応できるように訓練することだといえる。そこに意識的な動作はなく、環境全体に身体が感受して、反射的に算出される行動へとつなげているのではないだろうか。それが先に引用したドゥルーズの言う<姿勢の連鎖>という言葉に集約される。このようにスポーツを語るドゥルーズには、カール・マルクスがふたたび宿っている。人間の意識的な行動の外にある、きわめて唯質的な要件によって決定づけられる関係性がこのスポーツ観にもあるようだ。それというのも、先程引用したインタビューにはこのような環境に投げ込まれたところから開始されるスポーツ観が、まさに現代の哲学的課題と共鳴しあい検討されるのを発見できるからである。まず現代の哲学は運動を問題にするということから語り始められる。それにつづくコメント。

「運動は、スポーツや慣習のレベルで変化する。私たちは長いあいだエネルギー論的な運動観をよりどころに生きてきました。つまり、支点があるとか、自分が運動の源泉だといった考え方をしていたわけです。スプリントや砲丸投げなどは、筋力と持続力の問題だし、そこにはどうしても起点やてこが関係してくる。ところが現在の状況を見ると、てこの支点への付着をもとにした運動の規定は次第にまれなことになってきたのがわかります。新しいスポーツ(波乗り、ウィンドサーフィン、ハングライダーなど)は、すべて、もとからあった波に同化していくタイプのスポーツなのです。出発点としての起源はすたれ、いかにして軌道に乗るかということが問題になってくるのです。高波や上昇気流の柱が織りなす運動に受け入れてもらうにはどうしたらいいか。筋力の起源となるのではなく、『ただなかに達する』にはどうしたらいいか?これがもっとも重要な問題になったのです」(『記号と事件』所収/二〇四頁)

このようなスポーツの問題はそのまま現代の哲学の問題として語り繋げられる。運動にまつわる様々な思考を止めさせてしまうのは、永久機関のようなエネルギーを想定するからである。そうした動因にのみ眼をむけるのは、てこの支点にだけ意識を集中させるスポーツの仕方なのだ。「ただ中に達する」にはどうしたらよいか?いかに哲学を開始し、いかに生の中に達するように哲学をおこなうのかが問われているのである。

他にスポーツを主題化して書かれたドゥルーズの文章を発見することは難しいが、身体にできることを問題にした書物はスピノザとニーチェの名が掲げられる作品の中で、骨格的な役割をもっている。スピノザの身体に関する能動的な企図が、喜びへ接続されることについては別章で述べたとおりである→喜びの章。それと密接な関係を持ちながらニーチェをとおして語られるときの身体は「諸力の領域であり、多数の力が競いあう営養の場」(『ニーチェと哲学』第二章・能動と反動/六十五頁)として考えられている。化学的な身体(物体)、生理学的な身体(生体)、社会的政治的な身体(政体)という様々な境位をもった一つの体が、それぞれにおいて支配する力と支配される力の緊張関係を形成する。アドレナリンとノルアドレナリンの関係や、痛みと回復の関係、あるいは抑圧的社会構造と自由な身体性の関係のように、支配力の対峙をなすのである。そうしたことがすべて果実のように一つに結ばれたものの中で起こってる。ニーチェの用語では支配する力を能動的(actives)と呼び、支配される力を反動的(reactives)と呼ぶ。この度合によってそれぞれの諸力は位階序列を与えられているのだ。 このことは外在的な要因に無意識的に適応していくスポーツの側面とは矛盾しない。能動性とは、身体をとりまくきわめて物質的で因果関係の明瞭な要因を単純に捻じ伏せるということではない。外在的な要因の中にも能動的なものと反動的なものはあるからだ。そのバランスを絶えず取りながら、身体ができうる最大限の力能を活用出来るように外在的な要因の中でも能動的な力を、身体の運動に変換していくのである。

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