山本貴光『マルジナリアでつかまえて』シリーズについて


山本貴光氏のマルジナリア(本の余白への書き込み)シリーズを見ていると本と読者との新たな関係を提案しているように思えてくる。

近年ますます情報編集力とユーモアを織り交ぜた山本の文体は研ぎ澄まされ、その巧みな読みやすさで一つの提案は意識されないまま、知らずに読者はその古くて新しい書物との関係に誘われているのである。

印刷された文字と私達の脳の間に「手書き文字」がおかれる。マルジナリア(余白への書き込み)とは印刷物と脳を仲介し、しなやかにつなげるパーソナルな変換器なのだ。

いわばその書物の周辺機器としてのマルジナリアは、読者それぞれにカスタマイズされ、大量に複製された書物を唯一無二の書物へと変貌させていくのである。自分だけの本はそうやって生まれる。

マルジナリア(余白への書き込み)は本との対話でもある。読書が歴史的に多声的になったのは、最古の大学がパリに誕生した時であろう。パリの大学のゼミでは当時貴重な書物を複製できないため、音読によって読み進めていった。一冊の本を音読によって共有して、そこに議論や注釈を加えていく授業である。テキストと意見や傍注は完全に混ざり合い多声的になる。

マルジナリアとは黙読してもなお多声的であろうとする読み方と言ってもいい。テキストの周辺で複数の声がこだまし、あたかも全ての書物は対話篇へと変貌を遂げるのだ。

かつてデリダが『弔鐘』でヘーゲル論とジュネ論という二つのテキストを併載して一つの書物を響かせるように編んだのは、こうした書物の多声的な効果を再現していくためでもある。この効果をさらに高めるためにジュネ論はマルジナリアとして手書きで加えるべきであったかもしれないとさえ山本の本を読んで思う。
 
山本貴光氏のマルジナリアシリーズはかくも書物の無際限な実験の記録であり、一つの声を多声的に拡張させ、読み方によって読者が書物を変容させる技術書であると言えよう。



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