『ドゥルーズABC全注釈』Z-Zig-zag ジグザグ

#61   暗き先駆性

異なるものを異なるものへと結びつける。そのとき我々は、まるでそれが誰かによってなされたかのように考えてしまうのではないだろうか。潜在性の中の、差異を差異と結びつけること。別のセリーとセリーを結びつけること。カップリングや共鳴という関係もある。こうした別のものを互いに関係づけるときに我々は特権的な場所を想像してはいないだろうか。

ドゥルーズは、この特権的な場所という考えを分子化、分散化する。その考え方が〈暗い先駆性〉であり、これをより様態化させた言葉がジグザグである。差異の様相を捉えたとき、中心的なものが差異を発動しているのではなく、瞬間ごとに取り出される差異が自ら差異をつくりだしているのがみてとれる。「自己自身によって異なるものを異なるものに関係させる〈自己との差異〉」(『差異と反復』一八八頁)がそこにはあるのだ。だから差異はいたるところで起こっており、このように分散化されたものは、やがて関係づけられる。差異を自ら作り出す力の度合いに応じながら、作り出す差異と作り出される差異の〈関係=比〉に基づいて結ばれるのである。ドゥルーズが〈第二段階〉とこれを呼ぶのは、すでに〈第一段階〉で異なるものが、異なる仕方で二重に差異化されるからなのだ。言葉をかえれば、〈第一段階〉ではそれらは明らかに異なったもの同士なのだが、「異なっている」と引き比べられ、お互いが違うことではじめて、関係づけられるような状態を〈第二段階〉なのだといってもよい。互いに異化作用がある。

〈暗い先駆性〉についてもっと具体的なイメージをあたえる端的な文章があるので引用しておきたいと思う。なお引用文では「暗き先触れ」と訳されている。

「雷は、あい異なる強度のあいだで炸裂するのだが、ただしその雷の現れる前に、見えない、感じられない暗き先触れが先行しており、これがあらかじめ、雷の走るべき反転した道筋を、まるでくぼみの状態で示すように決定するのである。同様に、あらゆるシステムも、縁どりの諸セリー間の連絡を保証するおのれの暗き先触れを含んでいる。やがてわたしたちが見るように、その役割は、システムの真理からしてきわめて多様な規定によって実現されるのである」(『差異と反復』一八七〜一八八頁)

ではそれは予感/予期のことではないのか?しかし〈暗い先駆性〉は観察者の情動を抽出したものではない。だとしたらそれは何か?言葉をかえれば、ある出来事がおきる潜在力なのだといってもよいかもしれない。ただしドゥルーズはこの潜在力を出来事から切り離した別の力であるとは考えていないので、上記のような入り組んだ表現を取らざるをえないようだ。

「先触れは、まさしく対象=Xであり、おのれ自身の同一性において欠けてもいれば、『あるべき場所に欠けてもいる』もの」(前掲一八八頁)なのだと言われていることからも考えてみよう。対象=Xとはカントがもちいるような〈あるもの〉の記号表現である。意味作用から独立させて、純度の高いかたちでなにかを指示している。つまり限定されないが何かを指し示しているという状態を表している。フッサールの物=Xの使用法をドゥルーズはすでに、意味としては固定された生成の方法として利用しているとして批判しているが(『意味の論理学』〈第14セリー・二重の因果性について〉/百二十六頁)、このような記号表現の系譜をふまえて、ひとつの帯域(=領域)をしめすようなものとして対象=Xをドゥルーズは使用しているようだ。つまり先に引用した言葉で言えば稲妻が走るであろう帯域である。夜空は稲妻が走るであろう帯域をもつことにより、夜空としての同一性を欠き、たちまちに暗闇の空として現れるだろう。稲妻が走り去った後、ふたたびその光の残光を追い稲妻が在るべきところに目をこらすとき、次の稲妻がべつの暗闇を貫いていることがわかる。もし眼差しが在るべきところになかったら、別の稲妻の移動を知ることはないのだ。あるべき場所にないことによって、つぎの稲妻の場所がつくりだされているといえる。同一性から欠くことによってその潜在的な可能性を開き、あるべき場所から欠くことによって潜在的に新たなる場所をみつけだすのだと言い直すこともできる。まるでエントロピーの概念のように不可逆的変化が、別の種類のエネルギーの増大を見ているようだ。同一性を否定する何かがあらわれて、別のものが産出されるのではなく、同一性自らが差異をうみだして、別のものに生まれ変わることなのである。これらを成すためのエネルギーの帯域が〈暗い先駆性〉なのだ。

『意味の論理学』では精神分析の概念、ファロスが先触れ(先駆性)として扱われている。ファロスが対象=Xなのである。〈第三十二セリー・セリーのさまざまな種類について〉では次のように書かれている。「ファロスはパラドックス的要素もしくは対象=Xであり、つねにそれ自体の均衡を欠き、同時に過剰と欠陥であり、等しくなることがなく、それ自体の類似性・同一性・起源・場所にそむき、それ自体に対していつも移動している。それは浮遊するシニフィアン、浮遊させられたシニフィエ、出席者のいない場所、場所のない出席者、空虚なケース(それはまたこの空虚によってひとつの過剰を構成する)、定数以上の対象(それはまたこの定数以上によって欠如を構成する)である」(前掲二百八十四頁)二つのイマージュのセリー、一つは前性器的セリー、今一つはオイディプス的セリーを結び付ける帯域が、ファルスという対象=Xなのである。

さらに具体的な例を見てみよう。文学的なシステムにおける〈暗い先駆性〉とはどのようなものだろうか。様々な語が結びつく条件として、ドゥルーズは言語的な先触れが必要だとのべている。これは無意味な言葉をリフレーンすることである。同一の意味を欠くことによって、意味=効果の可能性をひろげることであり、シンタックスどおりの〈あるべき場所〉に言葉は配置することなく、文法を欠いた語法によって新しい文体が発明されている。かばん語はルイスキャロルによって作られた無意味な流動性のあるリフレーンである。

「言語的な先触れ[かばん語]は、一種のメタ言語に属するということ、またその先触れは、第一段階の語詞的な表象=再現前化のセリーにおいていわれる意味を欠いているような語としてでしか具現化されえないということ、これである。それこそ、リフレーンである」(『差異と反復』百九十二頁)

〈第11セリー・ナンセンスについて〉ではこのカバン語がセリーを分岐させる機能がある(八十七頁)と明記されている。これは言葉がリフレーンされることで別の意味をもつセリーへと接して分岐し折れ曲がり、指示される対象と、それを指示する言葉のあいだにジグザクをつくりだしている働きであるといえるだろう。つまり別の意味へと移動する帯域を〈暗い先駆性〉はつくりだしているといえるのである。

しかしもっとも注意すべきなのは、この〈暗い先駆性〉が原始的なカオスを意味しているわけではないということだ。端的にいえばこの概念はエネルギーの使われ方の問題であり、そのエネルギーが利用可能なものとして潜在化している帯域の発見そのものを問題にしているのであって、無軌道な言葉の戯れといったイマージュとはほど遠いということである。カオスはこのような潜在力の帯域に巻き込まれており、また可能な意味のセリーのすべてをカオスもまた巻き込んでいる(『差異と反復』百九十四頁参照)。カオスがこの帯域の内側にも外側にもなるのは、こうした潜在的な帯域が、まさに襞だからなのである。

『襞 ライプニッツとバロック』の中でドゥルーズはジグザグについてこのように語っている。「襞は一体どこを通るのか、という問いにはさまざまな答えを与えることができるだろう。既に見たように、それは単にもろもろの本質と、もろもろの実在者の間を通るのではない。もちろん襞はまた魂と身体の間を通るのだが、すでに身体の側の、無機的なものと有機的なもの間を通り、魂の側の、モナドの、〈さまざまな種〉の間を通るのである。これは極端にまがりくねった襞であり、ジグザグであり、位置決定できない始源的な絆なのである」(二百六頁)

襞が通るその軌跡を追うと、それはジグザグになっているというのだ。襞とは内部と外部を一つに扱う概念だった。外部の世界性が襞として折り畳まれ、内部の襞のあいだに再度襞が折り畳まれる。そしてその襞のあいだを繰り返し襞が…。このジグザクの無限の様態は、引用した文章でもわかるように、精神的側面も、物質的側面もいともたやすく越えてしまっている。なぜならこの様態は主体化作用から生物学的な個体の発生まですべて同じジグザクを描きながら作られているからだ。主体においては身体に与えられる所与のものと魂のあいだでジグザグが走り、モナドではそれぞれ別の階層のモナドがジグザグに共振しあい、分子生物学的なヴィジョンからは無機物と有機物のあいだでジグザグが走る。ジグザグとはかように異質なものを引き合わせる絆そのものなのである。原始の海に稲妻が走り古細胞に刺激をあたえて異質なものが結ばれ、遺伝子を変性させ、たちまちの飛躍によって別のものにさえ変貌するような開始の合図だといってもよい。

リベラシオン、一九八八年九月二十二日付けのインタビューでドゥルーズはもっと具体的にこのジグザグについて語っている。「私は点というものが好きになれないし、定点をさだめる(ポイントをおさえる)ことは愚劣だと考えています。ふたつの点のあいだに線があるのではなく、線が何本も交差したところに点があるわけですからね。線は規則的ではありえない。そして点は線の〈変曲〉であるにすぎないのです。だから、重要なのは始まりと終わりではなく、〈あいだ〉の部分なのだということにもなる。事物や思考は〈あいだ〉に芽生え、そこで育っていくわけで、じっくり見据えなければならないものは、この〈あいだ〉にあるのだし、襞も〈あいだ〉にあらわれてくるのです。だからこそ、多線状の集合は折り返しや交差や曲折をもちうるのだし、これがあればこそ哲学と哲学史、そしてふつうの歴史、さらには科学と芸術が通じあうことにもなるわけです。突風のように空間を占拠し、ありふれた点の上にすら出現しうる運動の屈曲、とでも言っておきましょうか」(『記号と事件』二百六十八頁)。

ドゥルーズはジグザクを異なるものとの出会いの帯域と考えていた。それは哲学史の中でも、科学や芸術のあいだでも、起きうるような〈異化されたもの〉同士の出会いの領域である。まさしくドゥルーズの哲学は暗き先駆性に満ちている。哲学とは無縁であると思っていた読者が、その書物を手にしたとき、雷鳴がとどろく。それぞれの闇の中で、手探りの生の中で、次の雷はまもなく明滅するだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?