『ドゥルーズABC全注釈』G-Gauche 左派

#15 政治的なもの

ドゥルーズはおよそアクチュアルな政治的集団に関わりをもつことを敬遠してきた。友人達の多くは共産党員となったが彼はそうしなかった。それは政治に無関心であったというのではない。哲学は歴史の上でしばしば政治集団の動機づけやスローガンに寄与してきた。そのような権力装置であった哲学を避けるがゆえにこそ、敏感に政治の効果に線をひくのだ。そのかわりに彼は「哲学者でなければ、法解釈をしていただろう」とインタビューで言ってみせる。R・D・レインがそう呼ぶように、現実におこる種々の日常的な問題をひとつひとつ片づけていくことこそが彼にとっての政治的なものなのである。

すでに我々はある規則の中に投げ込まれている。書かれた文の行使によって我々は生活の中で形式を制限されているのだ。しかしこの文は解釈さえ変えれば、別の規則をうみだし別の形式をつくりだす。ドゥルーズが「人権という概念は空虚だ」と言うのは、この概念が出来事に応じて規則を変えたり「個々の事例における人生の権利」の具体的な形式をつくりださないからである。人権という概念は無力な魔法の杖なのだ。あたかも魔法をかけたと思わせながら、法装置は全く起動してはいない。具体的状況が変化することによって法装置をたえず作動調整しなくては正常運転はできない。人権という抽象を適応させるのでなく「判例を創造して二度と悪い事例が起きないようにすること」こそが大切であるとドゥルーズはインタビューで答える。

同じように大きくて空虚な政治的なものに、人々が取り込まれてしまうと、「抽象」が人々の人生を蹂躙してしまうことになるだろう。左派や右派という言葉はその人それぞれの立ち位置の感覚に過ぎないとドゥルーズは言う。ミクロ的な政治学の中では、マルクス主義にも左派と右派があり、保守勢力にも左派と右派がある。ドゥルーズにとって左派とは自分の立ち位置より遠い場所から考え始める感覚をさしている。マルクスが左派であるのは人間が自分でつくったものから疎外される現状と、人間と呼ばれたものの新しい関係について思索するにあたり、世界規模のより大きな問題から次第に国家や、社会や家族の問題へと位相を立ち位置に次第に近づけて考察していくからである。MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)のマルクスの抜粋ノートの研究が進むにつれて、ドゥルーズの語る左派としてのマルクスの思考圏域が浮かび上がってきた。より遠くから開始されたマルクスの思考圏域は、惑星規模から新しい生産様式が開始され、環境バランスによって科学的に物質代謝を抑制される未来の資本主義を構想し始めていた。

#16   革命/生成変化

ドゥルーズは革命が可能かどうか、その答えは誰もがほんとは知っているのだという。では必ず挫折してきた革命に、なぜ人々はそれでも賭けてみようとするのだろうか。ドゥルーズは、その点を大事にして、人々がいつ革命的になるかを知ることが大切なのだと述べている。『ABC』のインタービューの中で革命という言葉を彼は二つの側面で使う。革命が不成功におわると語っているのは<階級闘争の手段>としての革命であり、これは歴史的なものである。またもう一つの革命は生成変化としての革命であり、<革命的になる>という状況へとすすむ可能性のことなのだ。

前者の<階級闘争の手段>については『アンチ・オイディプス』(邦訳三百四頁から三百十頁)にくわしい。なぜ革命が不成功に終わるのか。まず闘争をするためには階級の両極化を明確にすることが任務となる。国家の征服をめざすためにこれらの組織政党が現実化される。「社会主義の運動は、必然的に、プロレタリア階級をブルジョア階級から区別する境界線を固定し指定する道を歩まざるをえないようにおもわれる」(三百六頁)。革命が具体的でないものをおいかけたとき、革命は抽象的なものになり、この抽象機械の推進力を増大させるために階級づくりのエネルギーが集められる。やがて人々の行き場のない熱狂だけが集団制作へと集められていく。人々には様々な欲望のかたちがあるというのに、その欲望の強度だけがとりだされ、革命の抽象的な勢いに吸い上げられるのだ。歴史的意味での革命が失敗するとドゥルーズが言うのは、このような場合である。歴史的な革命は、人々の熱狂集積機であり、革命の成功を宣言した後も、集め過ぎた階級づくりのエネルギーが過度に運転されて、押し留めることはできず革命しつづけてしまうのだ。

このようにつねに集団をうみださねばならない政治的前提が変革すべき経済的前提を凌駕しつづけてしまうのである。資本主義の中にも同じような脱領土化をドゥルーズとガタリはマルクスのテキストから読み取ることになる。資本主義の本質は、なにより富が抽象的で主観的なものであり、その限りにおいてたえず、富が富を生み出し続けねばならない強迫によってこの富みは維持される。つまり富の脱領土化によって資本主義は正常に運転され続けているのだ。これは階級闘争が階級によって階級を常にうみださねばならない脱領土化と本質的におなじなのである。

ただし現実の資本主義機械がこのような歴史的革命とちがっているのは、自分自身が脱領土化したものをたちどころに再領土化していく運動を連動させている点にある。このことを彼らは別の言葉でこのように書いている。「資本主義の運動は、一切の固定し指定された境界線を巧みに逃れ、自分の内なる境界線をいくつものり越えおきかえて、たえず切断を切断する操作を続けるものである」(三百六頁)。その領土化はふたたび脱領土化をひきおこし「社会体」を組みかえていく。ここには革命とおなじように資本主義にも到達点はないのだ。この到達点のなさを、ドゥルーズとガタリは逆転させて肯定する。人々が革命的になるのはまさに、このように社会そのものと共に脱領土化していくときであり、この永遠の未完成こそが、可能性の無限を告げているとでもいいたげなのだ。革命は成功しないがゆえに、革命によって革命をうみつづけ、その上で<革命的になる>生成変化をおしひらいていくというのだろう。

#17 マルクスの偉大さ

そもそもマルクスをドゥルーズはどのように接続してきたのだろうか。生涯の作品群に多岐にわたって引用、および参照されるものは多様な層をもっているが、あえてその接続の特徴を取り出すとすれば3つの観点が考えられる。一つは唯物論の新しい使用法。もう一つは人間と呼ばれたものの新たな像の創造。最後は主観的な富みを中心とした生−政治経済学である。

その中でも最たるものは人間という概念をかつてないほどに破壊し、創造しなおしている点である。ドゥルーズが初期につくったアンソロジーの教科書『本能と制度』に、最後の項目でマルクスの文章がとりあげられている。ここでは人間と呼ばれたものが、一個体の自意識をもった入れ物であることをやめて、「社会的な諸器官」を作り上げる生産関係であることが読み取れる。それゆえ、社会活動も、生の器官として社会に接続され生産する働きとなっている。この発想はガタリと豊かな創造性をくわえて『アンチ・オイディプス』の概念群の輪郭となったにちがいない。人間像の組み替えは性の領域にも及んでいる。『アンチ・オイディプス』三百四十九頁にはマルクスの神秘的な性差が接続されている。男女の性の区別ではなく、〈人間的性と非人間的性〉の相異があげられる。これはマルクスが欲望を社会的関係を通じることで実現されるものと考えており、あらゆるものにむけられる欲望としての非人間的性が、社会的な諸器官をつうじてはじめて人間的な性になるということである。そこには男女という精神分析的人間の形態に基づいた区別はなく、無数の社会的な性が生産されることになる。これがn個の性の概念へと接続されていくことになった。このようにマルクスはまさに現実的なものが、ことごとく機能と効果に組み替えられていくのだ。

一方我々の、この現実をもたらす社会の潜在的なものの一切をマルクスは唯物的にとらえ、組みかえたり操作できうるものとしてとらえる。ドゥルーズがマルクスから受け取った新しい唯物論とはこのように潜在的なものを具体的にあつかえる方法なのだ。たとえば『千のプラトー』の四百九十九頁から五百頁にかけて、マルクスの歴史学的な方法から分析した捕獲装置の三位一体定式(土地/労働/貨幣)をあげた観点は、捕獲装置という戦略的概念が唯物的であることを指示している。また『差異と反復』二百八十四頁、社会的理念について論じられる時には、それが社会に関する質化可能性と量化可能性およびポテンシャリティであることをのべ、さらに具体的にこれが「労働力の担い手もしくは所有の代理としての諸原子のあいだに打ち立てられるような、生産関係と所有関係である」と述べている。この唯物論は、徹底的に分子化されていくことになり、我々がもはや壊せないと信じている物までも分解されて、微細な唯物的組み立ての多様な世界をおしひろげるのである。しばしば潜在的なもののほうが抽象的に感じてしまうのは、この分子的唯物化の徹底がなされていないからである。

資本の分析においてあらわれた様々な概念をドゥルーズとガタリは縦横無尽に利用することになるのだが、共通してこれらの見解が、一つの主題にもとづいておこなわれている。『哲学とは何か』百三十九頁。資本主義の限界は「システムを増大させながら絶えず自らを置換え、みずからを置き換えることによって自らを再構成するのである」とのべられている。このことは資本というものが自ら生産し消費しつづける自己運動であり、富が主観的抽象的であることを(『アンチ・オイディプス』三百十頁)その原動力としているのである。富は固定化した土地や貨幣にやどるのではなく、自己運動する一つの効果/機能としてマルクスがとりだしたのだった。この観点は現実に起こる諸問題が、具体的なものを抽象的にし(人間)、抽象的なものを具体的(富)にしてきたことで生じてしまった諸原因であることを指摘しているのである。まさに富の分析が生−政治経済学の基礎なのである。

では、ドゥルーズのこうしたマルクスとの接し方を踏まえて、『マルクスの偉大さ』という書物を彼が書いたとすれば、どんなものになるかスタニスワフ・レムのように想像してみることにしたい。ネグリが語った『マルクスの偉大さ』の草案として一時流布されたものは、彼が『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』から抽出した最良のマルクスのイマージュに過ぎず「一つの名を持たない共同体=多数性」はマルクスの概念創造の一部に過ぎない。マルクスをマルクスたらしめている決定的概念をドゥルーズならまず取り出すはずだ。手がかりにデリダがドゥルーズへの追悼文に引用したドゥルーズ自身の言葉を読んで見よう。

「フェリックス・ガタリと私はつねにマルクス主義者であり続けました。それぞれ違う仕方ではあるかもしれませんが、二人ともに。それは、私達が、資本とその発展の分析を軸にしないような政治哲学を信じていないからです。マルクスのなかで私たちがなにより興味深いのは、内在的システムとしての資本の分析です。それはたえずそれ自身の限界を後方へ押しやることを止めず、つねにいっそう拡大した段階で、その限界を再び見いだします。なぜなら限界とは、資本主義そのものだからです」現代思想1996年1月号『これから私はただひとりさまよわねばならない』鵜飼哲訳

マルクスの歴史哲学に反復の運動をみていたドゥルーズはおそらく、この自己創出的な運動の原理を、マルクスの根本にすえるにちがいない。富の自己創出的運動。労働力の自己創出的運動。資本主義の自己創出的運動。自らが自らの限界にさいして、自らをより大きく反復する内在的システム。ここに欲望する機械を接続して『アンチ・オイディプス』は作動することになるのだが、それは『政治と精神分析』の「精神分析に関する四つの提言」でのべられているようなマルクスとフロイトの共犯的な関係を射程にいれていたからである。しかしこのことはもう十分かつての作品の中で語られている。哲学史のなかでドゥルーズが、マルクスに何を担わせるかが問題なのだ。まさにマルクスが直面した哲学の限界とは哲学そのものだからである。

これらの自己創出的テーマをひきこみながらマルクスの概念の特異性をもっとも良く表現しうるのは、「物質」material という概念ではないだろうか。唯物論の新しい定義からドゥルーズははじめるだろう。そこには学位論文の「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」が解剖され、そしてこの<物質>という概念が単に、<観念>という概念の反対物として発生したものではないことを忠実に描きだすかもしれない。

なにかを創出しようとするとき、我々は創出すべき材料が必要になる。マルクスが、たとえば『ドイツイデオロギー』で交通や個人や生産にそのつど「物質」という概念を接続することによって、あらゆる世界の現実的な機能を変革可能なものにしているように、「なにものかになることのできる」材料materialであることを「物質」という概念にたくすのである。ベルグソンの物質という概念への傍注もはられるだろう。そしてそれらは物質である限りにおいて、分析可能な諸関係をつくりだすのだ。

またマルクスの人間像の変貌も章をかえて説明されるに違いない。性に関して人間でないものを想定したマルクスは、人間という概念の死を予告したフーコーとおなじなのだと、ドゥルーズはニーチェに比して書いていた。従来の人間像はマルクスによって大きく変化する。それは人間もまた物質的/材料的なものmaterialなのである。人間とよばれた概念が破壊されそれが材料的となるとき、真に可能態puissanceとしてそれらは変貌するということだ。このメカニスムが内在性のシステムなのだろう。

あらゆるものになることのできる内在として、「人間」概念は解体され構築され生まれ変わる。『経済学哲学草稿』を引用した初期の教科書のあの一文がふたたびくりかえされるかもしれない。個人の感覚や精神を所有する器官は、社会的な形態の中で、社会的諸器官として作りあげられるという、あの一節。物質/材料となった人間が、社会的器官として組み立て直されるのだ。 ネグリが聞いたかもしれない「普通名詞(知覚の総体)の生産過程を一つの存在論的に翻訳すること」というフレーズはその時こそ生きてくる。人間という普通名詞が生まれてくる生産過程を、社会的器官として組み立てられる存在論的物質として翻訳していくのである。

このように「物質」materialをめぐる、『マルクスの偉大さ』という本への夢想をくりかえしても、その書物がもはやこの世にあらわれることはない。完成しない書物がすべての読者に開かれている。革命がそうであったように費えないからこそ、それらは永続的なものなのだろうか。誰かにありえない書物を語る、そういう夜からはじまる喜劇もあるのだ。


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