『ドゥルーズABC全注釈』H-Histoire de la Philosophie 哲学史(後編)二日目

#20b    ドゥルーズの哲学史(近代)

ドゥルーズは〈経験論者〉の最良の部分を自身の哲学史の大きな土壌にしてきた。哲学史で一般的に経験論はイギリスという風土的な場所に根ざして、イギリス経験論といわれるが、ドゥルーズの哲学史にとってもっとも重要になる経験論の哲学者は、その著作もあるヒュームということになるだろう。英米文学の優位性がのべられるように、イギリスは彼の哲学の隠されたキーワードにもなっている。ヒュームのデッサンにおいて彼がいかなる概念を創造したかといえば、心的生を経験的原理に従わせることの出来る高次の原理として<超越論的経験論>という概念を先鋭化させたことだろう。

経験論はすべて知覚としての<印象と観念>で構成されたものによって合目的につくられるのであり、バークリーがいうように感覚の束として主体も構成的なものであると考えられる。しかしヒュームの偉大さはこの構成されるものが、<連合原理>と呼ばれる3つの法則に基づいていることを細やかに分析した点だった。ドゥルーズは類似resemblance、近接contiguity、因果関係cause and effect の関係を丁寧に分析する。なぜなら彼の哲学史ではこのような構成法の過程にこそ注意がはらわれるからだ。技法の詳しいデッサンはカント論での3つの能力で記述していく文体にとてもよく似ている。

このような観念の連合を、他の経験論者のように否定的にはとらえないで、むしろ観念の連合にこそすべての知的活動の源泉を指摘するようなヒュームを、ドゥルーズは最大限に自分の哲学史に導入した。そしてヒュームからうけとった心的生と経験的原理との共鳴の技法を<超越論的経験論>として育んでいくことになるのだ。

同時期に哲学地理学の観点から見ればヨーロッパの地勢において〈合理論〉という一般的な範疇ではまとめることのできない、様々な思想の潮流が作り出されていた。まずデカルトに関して彼が言及することは、時間の規定を排したコギトへのオーソドックスな批判を除くと、『哲学とは何か』で指摘されている〈白痴〉の発明である(本書九十頁)。デカルトが哲学者として今もなお魅力的なのは彼がユニークな概念的人物を発明したからである。この人物は思考することを求めるのだが、ほとんど何もしらない。理性によってのみ進むことができるような人物だ。かような人物造形を登場させることにより「私は考える」と「私は在る」と自らにつぶやく思考のイメージが明確になるのである。この〈白痴〉という何も知らないのに考え求める人物造形はスコラ哲学的な組織に対決したり、ニコラウス・クザーヌスやドストエフスキーの書物に登場したり、ヨブのようになったりする。デカルトの発明した〈白痴〉が歴史の上を歩き回るのを追いかけると、コギトの哲学史ができてしまうようなのだ。

年史的には後に続くスピノザとライプニッツはドゥルーズにとって特別な哲学者である。なぜならこの二人の哲学者は、ドゥルーズが現実的問題を考察するときに、もっとも多くの現代的アイデアを豊富にもたらしているからだ。しかもその2冊はドゥルーズの人生の転換期ともいえるような時期に折り重なり出版されている。ドゥルーズを17世紀の発掘者であると言う人がいるほどこの時期の哲学者に大きな関心を寄せている。

スピノザに関する問題群のシフトとなる概念は「力」に関するものであり、ここから引かれる線の上にニーチェもフーコーもまた置かれることになる。ドゥルーズがその著作において〈表現〉という問題をとりあげたのは、スピノザの無数の概念群の中で、もっともよく「力」の性質をあらわすからである。そして〈能動と受動〉というベクトル的な視点の二分法によって、この力の度合いと方向性を検討して、精神的自動機械という人間=機械像をいかに作動させるかという問題が再提出される。つまりここで検討される表現論とは、「誰が表現しているのか」ではなく、いままさに表現されている力をいかに扱うかというシステム論に問題は移行しているのだ。ドゥルーズによるスピノザの表現システムにおける3つの図式は、〈実体-属性-本質〉のトリアーデの形式を始めとして、〈完全-無限-絶対〉、〈力としての本質-力がその本質であるところの本質-変様をうける能力〉、〈属性-様態-様態的変様〉というように細部にわたるまで3つの図式の形式が徹底されている。言葉だけをここでは抜書きするしかできないが、ドゥルーズの哲学に特徴的な3つの図式のスタイルはスピノザによるものだろう。問題は数的な区分けにあるのではない。スコトゥスを引き合いに出しているように、神の一義性を三位一体で表現したのと同じく、この3つの図式は世界を生成している力=〈実体〉の表現のされかたなのだ。〈属性〉に現れる実在的なものは形相的、本質的に区分けされる。物事や事柄が数で区分けされるのでなく質で区分けされる。これは力の性質を取り出したものだ。一方〈様態〉による区別は、その力の構造による区別であり、この構造は常に可変的なものなのである。この構造の中では数的な区分けも力の度合として取り出すことができる。こうしてみると実体は力そのもの、属性はその力の性質、様態は力の度合であるという見方も可能になるかもしれない。力を3つの要素によって説明しているのである。

3という数字はある種の完全性であって、哲学者の人物像を描くには3つのエピソードがあればよいというディオゲネス・ラエルティオスを評したニーチェの言葉も思い出される。スピノザの「力の系譜」は、ドゥルーズのインタビューでいえば、人間がおののくような恐るべき観点をあたえる哲学的な動脈である。この「力」による観点は美術表現にも適応される。「諸力を描くもの」として絵画をとらえた色彩感覚を分析するセザンヌとフランシスベーコンのセリーに共鳴するだろう。

ライプニッツが、スピノザなどとくらべて、彼の経歴で後年に書かれることになるのは実に興味深いことだ。それはまるでスピノザによってはじめられたものがライプニッツよって変性させられるそのあいだに、彼の経歴が横たわっていたかのようである。力の問題は潜在性の問題に移されるのである。

スピノザによって与えられた力と機械の観点。この大きなうねりが、ガタリとの融合によって二冊の大著をなすのだが、ドゥルーズはこの二人の旅から帰還すると、二種類の出来事をとりあつかいスピノザの観点をもう一度、具体的に置き換える。一つは映画をあつかい〈精神的自動機械〉がいかなる分類をなすことができるのかを検討し、もう一つは絵画をあつかい〈力〉を描くということがいかなることであるかを検討する。それゆえスピノザとライプニッツのあいだに、ドゥルーズの哲学は長い時間をかけて襞を折りたたんでいったということもできるだろう。この反復のあとに、彼はライプニッツへと向かう。そこにはフーコーが共に歩いていた。スピノザとニーチェの系譜に接続された力のダイアグラムを描くフーコーは、哲学においてまた〈諸力を描いた〉ひとであった。その彼がこの諸力からいかに主体化作用によって主体が構成されるかを検討するに至った。この力という連続的なものがいかに主体として切り分けられているのか。スピノザの力はいかにライプニッツによって分割されるのか。そういう道筋のなかで検討されるのは、まさに連続的でありながら不連続なもの、潜在性という強度=連続の中から、切り離されずに現勢性へと分割し押し出されるもの。(これが後に説明するホワイトヘッドの延長的連続体である。この延長的連続体こそが〈襞〉の持つ性質そのものなのだ)この分割の仕方について、ドゥルーズは次のライプニッツの言葉を引いている。

「連続的なものは、砂が粒に分割されるようにではなく、紙切れや布が襞に分割されるように分割されるのである。このようにして物体は決して点や最小のものに分割されるのではなく無限の襞が存在し、ある襞は他の襞よりさらに小さいのである」(『襞 ライプニッツとバロック』十四頁/引用部)(もちろん、こうした考えかたが必ずしも量子論的な世界観と相克するものではないことはホワイトヘッドの仕事を詳細にみるしかない)

ドゥルーズの襞の取り出し方の背景には、もっと大きな問題として「潜在性」の系譜がある。最初に述べたようにアリストテレス以来、スコトゥスなどを経て引き渡されてきた潜在性の問題。これが彼が語る〈内在〉と密接な関係を持っているといえるだろう。

さて18世紀の3つの図式はヒューム、スピノザ、ライプニッツによって描かれた。これらのトリアーデの統合とはまったくちがった観点によってカントは登場する。カントは能力を概念的主人公にして「裁きの物語」を描き出した。その3つの図式は、感性、理性、想像力というトリアーデの形式である。これらの能力がそれぞれどのように主役になり、ほかの2つの能力がいかなる脇役を演じるかによって、3冊の批判書は形作られている。しかしドゥルーズはカントが、自らの体系を破壊するような創造的狂気も同時に見出しているのは興味深い。それはあたかも理性が、次々に怪物を生み出すかのようだ。我々の無知がそうさせるのではなく、カントはどこまでも冷静な理性の役割こそが、恐るべき情熱、盲信、などをつくりだしていることを解き明かしている。そしてさらにドゥルーズはカントによるこの能力の構成法が、美的なものに適応されるに至り自らの法則によって、自らの体系の変質、3つの能力の新しい関係を呼び寄せる様子をランボーの詩の分析などから解明していくのだ。カントに忌むべき法廷と裁きのシステムがなければ、ドゥルーズはその概念の多くを共振させている。

ニーチェに関して言えば、先にのべたように「力」の問題をふくめるとスピノザとの連続性の中で反復されることが多い。たとえば彼の〈高貴なもの〉という鍵概念を通じて、この「力」を物理学者の表現を借りながら「変化可能なエネルギー」であると語っている。(『差異と反復』七十七頁)むしろドゥルーズがニーチェから受け継いだ遺産は、〈概念的人物〉の方法であると思われる。『哲学とは何か』で哲学の重要な要素として取り上げられているこの考え方は、文学の方法に哲学をうみつけたドゥルーズの独創性にも関連している。シュミラークルや反復という概念を考察するときに、ニーチェが重要な役割を担っていることも忘れてはならない。しかしこれらは抽象的な概念として検討されるわけではないのだ。それはすべてニーチェの作品に登場する〈概念的人物〉たちにより語られるのである。『ニーチェと哲学』ではニーチェによって破壊された考え方が、いかなるものであったのかが常に問われたが、後年の『ニーチェ』では、いかなる〈概念的人物〉が登場しているのかが端的にわかるような仕組みになっている。概念を性格や役割として描いていること。それらが独立して、作品の中で生を得ていること。こうした観点は、ドゥルーズの哲学を構成する重要な構成要素である。

続いて現代の哲学者へと直接の影響を及ぼすマルクスとフロイトは常に批判的継承の形で、ドゥルーズの哲学史の中に大きく配置されている。

フロイトに関しては、『意味の論理学』『マゾッホとサド』『アンチ・オィディプス』というそれら反精神分析的書物三冊において、検討されるのだが、それぞれには精神分析の3つの側面を新たに再構成する方法論でもある。①部分対象の取扱い方-意味の論理学、 ②病理的なものの独自性-マゾッホとサド、③無意識の発見-アンチ・オィディプス。哲学史に堅固な自我の存在をゆさぶることになる無意識の発見には、ドゥルーズとガタリは多くの恩恵をうけることになる。しかしフロイトはこの広大な海を発見しながらも、小さな避難所のオイディプスをつくりだしてしまった。

無意識の生産と生産物。その生産過程、などなど、無意識と生産を出会わせマルクスとフロイトのアレンジメントを『アンチ・オイディプス』は積極的に行なっている。この中で展開されるラカンへの批判は、彼がふたたびこの無意識的なものを 別の形で、オイディプス化しようとしているというだけではないのだ。それはラカンの作り出した分析者-分析対象という権力のバランスの問題を含んでいた。分析者自身も自己分析することになるこの技法は、内省的であればあるほど、自罰的な権力の構造をつくりだし、無意識の生産物を最初から限定して生産してしまう。そうした意味では、欲望する機械の生産を妨げるものなのだ。

ドゥルーズとガタリは、フロイトが発明した概念的人物としてのオイデイプスの巧妙な罠を次々検証していく。それは本来なら、それぞれの個体が十全に働くであろう欲望を 欠乏を補う働きにとどめてしまい、家族主義的なものにおしなべて 取り込んでしまおうとする策略である。これは人類にとって壮大な欲望の罠であった。社会体に欲望する機械が接続されるとき、歴史的にもこのオイディプスは様々な形で使われてきたからだ。たとえば原始社会においては部族から部族へと、ポトラッチによる一方向的富や女性の流れなど、部族同士の関係がA→B→C→E→Aというように不可逆的な方向性でひとつの循環をつくり社会体を構成しているような場合を考えてみよう。こうしたことを可能にしているのはまさに近親相姦の禁止というオイディプス的な力によってなのである。家族同士は結婚できないから別の血族や別の部族を求めるようになるのだ。

王の身体に登記される帝国主義においては、彼らが富として配分される土地は、家族や血縁の関係と関係づけられ、ここでは土地機械とオイディプスがおなじものになって働いている。

現代社会の高度資本主義においては、欲望は分子的なものとなって四散したが、それでも国家の公理系やレギュレーターとして欲望は制御され、それらの欲望の流れは最終的に、ちいさな家族の三角形に流れ込むようにできている。オイディプスという家族主義的なものはこのように歴史的な背景を背負った壮大な罠なのだといえるだろう。

ドゥルーズとガタリが巧妙なのは、フロイトのこうした周到な罠を潜り抜けるためにマルクスの生産の概念を使い、逆にマルクスの資本主義の限界という誤謬をフロイトの無意識の働きから交互に補完させていることだ。ドゥルーズの哲学史においては、この両者はカップリングされることで現代社会の多くの問題に考察の糸口を見つける継起とされている。

『マルクスの偉大さ』という書物がもし完成していたら、ドゥルーズは彼の「物質」というテーマを大きくとりあげたのではないだろうか。物質的な特性を見出すデモクリトスを初期の論文であつかい、物象化では「物のようになる」という諸関係を主題化し、資本論では物質が価値をもつときの様々な形態を探求した。あるいは製品という物から、引き剥がされた労働力をとりだす分析方法。物の社会的な関係が、存在の働きまでも決定しているような物質の奇妙な働き。唯物的に所与のものを常にその考察の基盤にしてさえもいるドゥルーズにとって、マルクスほど物質に関して多くのものをもたらしてくれる思想家はいなかったのではないだろうか。唯物的なものはもっとも神秘的なものであり、同時に現実的(リアル)なものなのである。

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