『ドゥルーズABC全注釈』H-Histoire de la Philosophie 哲学史(前編)

#18    概念と色彩

哲学史に関してビデオ『ABC』では、ドゥルーズは二点について述べている。一つは哲学が概念を取り扱うのは絵画で色彩を取り扱うのと同じだという発想であり、もう一つは「思考が〈なること〉」すなわち哲学の生成変化が哲学史の中に現れるという考え方である。

まず色彩と概念の関係については興味深い記述が『哲学とは何か』で語られているので見てみよう。セザンヌは遠近法をもちいずに、奥行きを単調な色彩の配置だけで表現したといわれているが、ここではそうした事実を想起させるような概念の扱い方が描かれている。そのまま引用しよう。

「概念とは、諸水準をもたない単色ベタ塗りであり、階層をもたない縦座標である。したがって、次のような問いが哲学において重要になるーすなわち、一つの概念のなかに何を置くべきか、そしてひとつの概念を何と並置すべきか。ひとつの概念のかたわらにはどのような合成要素を置くべきか。それが、概念創造の問いなのである」(『哲学とは何か』邦訳百三十頁)

色彩感覚によって見えないものを描くということをなしたセザンヌとフランシス・ベーコンは、ともに単色平塗りによる効果を存分に引き出している。色彩が並べられることでそれらは色彩同士のコミュニケーションを引き起こす。「概念というものは、範列的でなく連辞的であり、投影的ではなく連結的であり、階層的でなはなく隣接的であり、指示レファランスではなく共立的である」(同書百三十一頁)と書かれるのも、色彩と概念の扱い方が見事に連動した例だろう。

この色彩の扱いに関する考察を『感覚の論理−フランシス・ベーコン』からいくつか拾ってみると、哲学はますます色彩を扱うように概念をあつかっていることがわかるかもしれない。たとえばベーコンとセザンヌを結び付けているものに「諸力を描く」という特徴がみられる(第8章参照)。これは色彩というものが明暗や寒暖を表象していた機能にくわえて、見る者の目の上に付着させるかのように、〈感覚〉を発動させたと言うことであり、絵画が見えない力を描きはじめたときなのだ。96ページにベーコンとセザンヌに特徴的な〈単色平塗り〉の技法が、「時間のフォルムとしての一種の永遠性」に達していることが宣言され、そこでは「色彩−構造」から「色彩−力」へと場所をゆずっていることが強調されている。時間のフォルムというのは、画布全体が満たされている状態をあらわしていて、これはセザンヌよりもベーコンの画布により強く気づかされるものである。いわばこれは時間の区分という条理的なものを投げ込むことのできない自由な平滑空間なのだ。一色平塗りで満たされた地の中に、ぽっかりと〈形象〉はあらゆる区分から遊離させられ、孤立化している。無重力の中の宇宙飛行士と同様に、そこにはある種の永遠性がある。またその空間ではあらゆる構造的な上下左右も問題にはならず、力の方向性と強さだけが、運動の軌跡となるような力学が存在しているのだ。このように「諸力を描く」ことが彼らの技法と表現によって可能になっているのである。

ドゥルーズの哲学は、ベルグソンを経ることで、とりわけ感覚に応えることの出来ない概念を扱うことはなかった。それというのも彼らの哲学は「諸力を描く」ことにあり、そこではまさに「哲学−構造」から「哲学−力」へと概念の働きは移行させられているのだ。だから概念には次のような色彩的な出来事がおきるだろう。概念は混じりけのないチューブから絞り出された絵具である。この絵具を混ぜることなく、かすれさせることもなく、いかに似ていようとも他のいかなる色彩からも完全に独立したような絵具である。概念は一定のトーンを生み出す。セザンヌが遠近法などなくても、この絵具を画布の上に並べ配置することで、より効果的な現実的感覚を見るものにあたえるように、概念も哲学者によって自由に配置され、混じりけのない一定のトーンのセリーによって、具体的な出来事をつかまえるのだといってもよいだろう。感覚とともにある概念には、セザンヌのリンゴの赤や、ベーコンの飛沫の白のように、向こうから付着しようとやってくる働きがあるのだ。哲学者のパレットにはどんな絵具が並べられていたのだろうか。ヒュームの人間的自然やスピノザの表現、ライプニッツの襞はどんな色彩を発色しているというのか。そして概念創造を哲学の主眼においたドゥルーズの創造した色彩とはどんなものだったのだろうか。

#19    哲学の生成変化

ドゥルーズは哲学者についての多くの書物を書いた。それは自分自身の哲学史を創造したといってもいい。誰かが通った順路に従い見てまわるのではなく、最初から自分自身で道を捜し求めて歩いてみること。地図をつくること。そうすることで誰も見たことのない獣道や小道も見つかるかもしれない。哲学者たちのポートレートを描く作業を学びながら、なにかを実現してしまうとインタビューで言っているのは、そんな忘れ去られた道を見つけ出した時である。彼は自分の足で歩かなくては、それを自分の思考の中に取り込むことはできないのだ。無数の獣道を歩き続けた後にできる、もっと確かな道。それが遠回りでも近道でも、新たなる力をもってそこに現れる限りにおいて「思考が<なること>」を実現しているといってもよいのかもしれない。

しかし彼の哲学が、こうした哲学者のデッサンで終わらないのは具体的な「思考が<なること>」のアイデアが提示されているからである。ドゥルーズは哲学を3つの側面として抽出してくる。一回性、自己相似、自己創出である。ビデオ『ABC』でもこの3つの側面から哲学史が語られている。彼自身が語っている哲学の3つのエレメントに関する言葉を書き取ってみよう。これによって「思考が<なること>」、すなわち哲学の生成変化をおこなう技法を我々自身が体得するのである。

「哲学は、3つのエレメントを提出する。それぞれは、他の二つに呼応しているのだが、ひとつひとつ取りあげて考察するべきものでもある—哲学が描かねばならぬ前-哲学的な平面(内在)、哲学が発明しなければならず、生きさせなければならない準哲学的な概念的人物そのものあるいは概念的人物たち(内立)、哲学が創造しなければならぬ哲学的な概念(共立)。描く、発明する、創造する、それは哲学的な三位一体である。ダイアグラム的特性、人物論的特性、そして強度的=内包的特性」(『哲学とは何か』邦訳百十一頁)

●描く/一回性

哲学史を描くというのは、まず哲学を可能にする平面を描くためである。この平面は限界を持たないので、つねに可能であるものが描くたびに変わる可能性をもっている。つまり同一なものはけしてありえない〈一回性〉なのである。何か違うものを描こうと欲することで、違いが生まれるわけではない。それは同一なものを基本にした差異の考え方だ。自分自身の考察のために哲学史をすべてやりなおしてみること、何度もやりなおしてみること。そのように描かれた哲学史はすでに無数の差異を生み出しえるのだ。それゆえ何者かによって描かれたものをそのまま接続するのではなくただ独りが、独りの脳によって哲学史を描かなくてはならないのである。フランシスベーコンの絵画が、エジプトのレリーフからキリストの受肉、光学的なギリシア芸術、触覚としてのゴシック芸術、セザンヌの色彩感覚までのすべての絵画史を含むように、一つの脳によって哲学史のすべてが描かれなくてはならない。『感覚の論理−フランシス・ペーコン』では第十四章「画家はそれぞれ自分なりの方法で絵画史を要約している」と題された文章があり、こうした要約の方法について詳しく述べている。創造するための、自分だけのために歴史を描くことをここでは述べているようだ。

この〈哲学史を描くこと〉にダイアグラム的特性を見出しているかを理解するために『フーコー』の中で書かれた文章を紹介したい。いかにフーコーの生み出したものが既成事実の再現としての歴史とはちがうものであるのか、その思考の結晶ともいえる「ダイアグラム」という概念を、緻密に編み込まれたフーコーの文章から、ドゥルーズが発見する箇所である。

「ダイアグラムは、聴覚的であれ、視覚的であれ、もはや古文書ではない。それは地図であり、地図作製法であり、社会的領域の全体と共通な広がりをもつ。それは、抽象的な機械なのである。無形の素材と機能によって定義され、内容と表現のあいだ、言説的形成と非言説的形成のあいだに、どんな形態の区別も設けない。それが見ること、話すことを可能にするのだが、それ自体は、ほとんど無言で盲目の機械である。ダイアグラムに多くの機能と素材があるとすれば、それはどんなダイアグラムも、一つの空間−時間的多様態だからである。しかしそれはまた、歴史のなかの社会的領域と同じほど数多くのダイアグラムが存在するからである」(五八頁)。

ドゥルーズの表現をさらに強調すれば、フーコーは「思考が〈なること〉」を可能とするような内在平面の歴史そのものを探求したのだといってもよいだろう。この内在平面は非言語的形成さえも含んでいたので、それは見ることも喋ることもなく、我々に気がつかれないままに、哲学の地層の中に埋もれてきたのだ。

「ダイアグラムは、実に不安定で、流動的で、突然変異を生じさせるような仕方で、素材と機能をたえずかきまわすのだ。結局、どんなダイアグラムも、いくつかの社会にまたがっており、生成途上のものである。それは決して規成の世界を再現するように機能することはなく、新しいタイプの現実、新しい真理のモデルを作り出す。それは歴史の主体ではなく、歴史の上にそびえ立つ主体でもない。それは、先行する現実や意味を解体し、これに劣らず多くの出現や創造性の点、予期しない結合、ありそうもない連続体を構成しながら、歴史を作り出すのである。ダイアグラムは生成によって歴史を追い越すのである」(五九頁)

あらゆる規成の悪しき反復でない以上、これらの歴史は多次元的な性質をもった一回性なのだということがいえるだろう。光をなげかけるごとに、歴史の姿がその光の先に現れるのだ。そしてその度に地図は描かれる。だからこそ、創造的歴史は常に新しいタイプの現実と新しい真理のモデルを作り出すと言われているのである。現実や真理の反復が歴史ではない。ドゥルーズが〈哲学史を描く〉というとき、それはフーコーの〈ダイアグラムを描く〉ということに、ほとんど同調している。

●発明する/自己相似

次に具体的にこの哲学史を描く行為をつうじて、我々はインタビューでも語られるように哲学者達のポートレートを発明することになる。このポートレートを発明する作業は自己相似的に、描く者自身の像をもとにしつつ、その自分の輪郭から線をずらしていく行為であるといってもいい。私の目よりも大きな瞳。私の口よりも小さな唇。私の指先よりしなやかな手つき…。たとえば身体イマージュを例にすれば、自己像からの、この近さと遠さが、発明される人物造形との関係を濃密にしている。自己相似的に発明されることで、自分にとって切実な存在としてそれぞれの哲学者は自分の中に棲まうようになるのだ。具体的な哲学者の問題に一つ一つ、自分の問題は関係づけられる。分析と同時に自分との関係がいつも問われるようなデッサン、それが創造的哲学史の中で概念的人物を発明するということである。いいかえれば、ドゥルーズは、自分の問題の中に歴史上の哲学者をすべて概念的人物として生成させたのだといってもよいと思う。

このポートレートには哲学者が、発明した概念的人物たちも、入れ子細工のように自己相似的な性格をもって内包されている。彼らが発明した概念的人物はまた彼らによく似ているのだ。しかしプラトンの〈ソクラテス〉やデカルトの〈白痴〉のように彼らは発明した彼らとは別の生をもっていることは忘れてはならない。そしてこれらの哲学者たち一人一人を、その発明された概念的人物ごと、そっくりドゥルーズは、自らに取り込んでしまう。渦が渦を呑み込む。すべての哲学者がひとりの脳の襞のうちに折りたたまれる。哲学者の固有名が独立した概念の働きと特異な性格を合わせもつのである。

哲学者の書物を読むとき、それにはなんの性格ももっていないかのようにその書物の部品だけを取りだそうとする人達がいる。しかしドゥルーズが「思考が〈なること〉」に神秘さえ感じるとインタビューで述べるのは、概念でも内在平面でもない、独自に生命をもってしまったような、性格をもつ人物造形が思考させるというこの点にもあるようだ。概念的人物は、カオスを内側に貯えながらも、一人の人物のような個体性をもって、さまざまな内在平面を旅したり、概念によって変身させられたりするのである。

文学作品や諸芸術にも人物造形は発明されている。しかし哲学の概念的人物と区別されるのは、それが〈情動と知覚素〉で思考されるということである。(『哲学とは何か』九四頁)ここにも「思考に〈なること〉」という生成変化がおきているといえるだろう。感情や知覚という受動的なものから引き剥がされた感覚のブロック。能動性をもつことのできる〈情動と知覚素〉という、この感覚のブロックによって生成されるのである。

また哲学が〈内在平面〉で活動していたのに対して、芸術の人物造形は〈合成=創作〉の上で活動する。もちろんこの〈合成=創作〉とは感覚のブロックで作られたものであることはいうまでもない。あえてドゥルーズはこうした違いを説明するために芸術における人物造形を、美的=感性的人物像/フィギュールと呼んで区別している。しかし哲学と芸術におけるこの人物造形は互いに行き交うものであることが次のような文章からわかる。「二種類の存在態/アンテイテ[概念的人物と美的=感性的人物像]は、それらを二つとも運んでいく生成において、またそれらを共−規定する強度において、しばしば互いに相手へ移行することがある。演劇的、音楽的人物像ドン・ファンは、キルケゴールによって概念的人物に生成し、ニーチェにおけるツァラトゥストラという概念的人物は、もとよりひとつの偉大な音楽的、演劇的人物像である。あたかも、お互いに相手に対して、同盟ばかりでなく、分岐と置換が発生しているかのようである」(『哲学とは何か』九六頁)

ドゥルーズの哲学において、この概念的人物/ペルソナージュ、並びに人物像/フィギュールというアイデアは、「思考が〈なること〉」の魅力的な側面をひきだしている。それは、哲学と文学のあいだに彼が生成させたもっとも先鋭的な概念といってもいい。なぜなら、哲学や芸術が「誘惑」するものであることを示唆しているからだ。「哲学の本領は、知るということにはない。そして哲学を鼓舞するものは、真理ではなく、たとえば〈面白い〉〈注目すべき〉〈重要な〉といった、成功または失敗を決定するようなカテゴリーである。さてもう一度言うが、そのことを[平面、概念、人物]を構築してしまう前に知るのは不可能である」(前掲書一二〇頁)

独自のデッサンを行なわずにこの楽しみを味わうことはできないわけだが、彼はさらにメルヴィルの言葉を借りて次のように明言する。「小説に登場する偉大な人物は、〈オリジナルな〉もの、〈ユニークな〉ものでなければならない。概念的人物も同様である。概念的人物は、たとえ反感をそそるものであろうと、注目すべきものでなければならず、概念はたとえ反発させるものであろうと、面白いものでなければならない」(前掲書一二一頁)「思考が〈なること〉」においていかなる人物造形が自分を惹きつけているのか。それがたとえ反感のかたちであっても自己とのいかなる関係があるのか。自己相似的な人物造形のあいだに再度、あらたなる生成変化が問われているということだろう。

●創造する/自己創出

〈創造する/自己創出〉については、ぜひ後続の「ドゥルーズの哲学史」をみていただきたい。ドゥルーズがどのような創造を行なったかを振り返りながら、概念創造の技法についても考えてみたいとおもう。一つの絵画を描くように、一つの概念をつくりだす。自らに与えられたものだけで、いかに新しさを生み出すのかを検討したい。なおこれら哲学の3つの要素の萌芽はホワイトヘッドの『過程と実在』の中にすべて存在している。『差異と反復』では『過程と実在』を現代哲学のもっとも偉大な書物のひとつであると賞賛し、ライプニッツをつうじて展開される晩年の思索の中ではますます大きな波及力をもった。ドゥルーズをとらえてやまない思想家がホワイトヘッドであったとしてなんの不思議はないだろう。

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