『ドゥルーズABC全注釈』I-Idee アイデア

#21 哲学のアイデア

ビデオのインタビューの中でドゥルーズは「哲学のアイデアには3つの次元があります」と語っている。『哲学とは何か』の第七章で展開される議論を、簡素に圧縮したかたちで、芸術家たちのアイデアとリンクしながら、哲学者ならではのアイデアというものを明解に述べているところである。ここに概念のトリアーデが登場する。財津氏は邦訳231頁以降で、三つの概念の関係を明確にするために、そのトリアーデに〈被知覚態percept −変様態affect −概念concept〉という関係性と、その役割を明瞭にする訳語を採用された。ここではより一般化させた中山元氏の訳語〈知覚素−情動−概念〉によって、この3つの図式を捉えることにしたい。知覚を誘発する、知覚を引き起こす、知覚を生み出す、その知覚の元素として〈知覚素〉という訳語が展開する。画家の色素、音楽家の音素それらが技法や組み立てをつうじて、知覚を誘発する〈知覚素〉として構成されるのである。

さて3つの次元はこのようなものだ。まず第一の次元は〈知覚素〉というひとつの表現的な材料がとりだされた段階。第二の次元では、その材料によってかならず変化させられる自由な状態として〈情動〉がとりだされる。そして最後の第三の次元では〈概念〉がこれら素材と状態を、変化/変奏させる運動装置として創造し組み立てられる。芸術家においては〈知覚素〉と〈情動〉の合成されたものを「感覚のブロック」とよび、哲学者の場合は「感覚のブロック」としての作品のかわりに〈概念〉を創り出す。作品や〈概念〉は変化/多様化させる運動装置である。

〈知覚素〉も〈情動〉も個人の経験によるものではない。個人によってこの「感覚のブロック」がどのように働くかは未知のものだからだ。この「感覚のブロック」は個人がいかに経験するかではなく、なげだされていつでもなにかと接続出来るようにあらわになって待機していなければならない。個人の所有物を離れて、あるひとつらなりの状態を持続しつづけているのである。

さて芸術家と哲学者が同じ特徴的な作業をおこなうとすれば、経験した知覚から〈知覚素〉を切り離し、経験した感情から〈情動〉を切り離すということである。しかしこの手続きによって哲学者は〈概念〉を創出し芸術家は作品(「感覚のブロック」によるモニュメント)を創出するのである。芸術家にとって経験は、もはや個人的なものを逸脱して多くの人に投げかけうるような巨人的なものとなり、この逸脱が継起となる。十分に作品として効果があり自立出来うる〈知覚素〉と〈情動〉という「感覚のブロック」がここから抽出するということなのである。そしてこのブロックによって、我々を取り込み生成させるのだ。哲学者はまったく同じような手続きをへて「感覚のブロック」の代わりに概念を創り出すのである。

#22 アイデアの技法

では具体的にどのようにアイデアは作り出されるのかみてみよう。まず、その材料をとりだすことからはじまる。有効なやり方で取り出された材料はおのずから、その表現をえらんで、独自なアイデアを創造する。 もしやなにもアイデアがなくなってしまったというとき、我々はいかなる方法でアイデアを導きだせるというのだろうか?ドゥルーズは、哲学者や芸術家を論じながら、我々のアイデアの方法について実に興味深い意見を提出している。 それはまず、我々がアイデアをだすべき素材、マテリアルがない状態からはじまっている。我々にはなぜアイデアがないのか?それは私達に材料がないからなのだ。この材料の問題でもっとも端的にあらわしているのは、アリストテレスから受け継いだあの現実態と可能態の議論である。我々の目前の世界が、すべて現実態であるかぎり、この世界には材料が存在しない。我々が、この現実態の実相をみつめて、ここに可能なものをみいだすとき、材料は私達のものとなる。

●材料の取り出しかた

風景がマテリアルであることを指摘した丹生谷貴志氏のあまりにも美しい論考は、セザンヌのことば「人間は不在である、そしてしかし、その時、風景の中に全てがある」をドゥルーズのいう知覚素(Percept)に結び付けたものだ。実際おなじように『哲学とは何か』の中でドゥルーズが語るとき、風景が、知覚を引き起こすものも、知覚を受け取るものも忘却させて、中間的な知覚素そのものになることを告げている。ここに、あらゆる歴史を内包させることもできるのだと丹生谷氏は『ドゥルーズ横断』「造成居住区の午後へ」で論じていた。風景が素材/マテリアルであるとすれば、人間という現実態もすべてこの風景の中へ、とけこんで可能態になるということだ。人間が固定化された形でのみ、この世界に現れる状態を逃れて知覚素の中へ、感覚のブロックの中へ組み込まれる。このときこそ人間が不在になる瞬間なのだ。そして人間はあらゆるものになる可能性を横溢させる。現実態から可能態への再帰移動、アイデアの材料はここからやってくる。

『ペリクレスとヴェルディ』ではこのアリストテレスの概念を創造的に解釈した現実態と可能態の議論が展開されている。訳者の丹生谷氏によって周到につくられた解題によって、シャトレとドゥルーズの独自性が強調されている。アリストテレスにおいて人間はけして、複数の変化の可能性をもった存在ではなかったが、彼らは人間を無数の「理性群」としてとらえるのである。「人間は可能態である、人間は素材である」という表現にはこのような事情がふくまれている。人間という材料があらゆる理性のかたちを創り出すのである。 これらの論旨にそいながらもう一度、アイデアの材料を取り出してみよう。 世界の事物がすべてこの世界の機能におけるそれぞれの現実態をもっている。我々の目の前の木製の椅子は、とうてい樹木にはみえないのだ。それは座りごこちや、色彩やデザイン、もろもろの椅子のイメージによってこの現実の中であらわれている。これが椅子という現実だ。この現実にあらわれている効果によって我々は、この目の前のものが樹木であることを忘れる。だから現実的なことというのは、すべて複数の効果の集まりなのだ。 しかしこれらのものが、いますぐにも破壊され、彫刻にされることも食器にされることも、燃えさかる炎にくべられることもできる無数の可能性がみいだされるとき、これが樹木という材料であること、樹木というあらゆるもの「になる」ことを思い出す。椅子のある風景は、もはや椅子が樹木であることを思い出したと同時に椅子を呑みこんで、さらにそれをみている眼差しさえ呑みこんで、可能なる樹木の森を出現させるのだ。すでにできあがってこの世界に現実的に組み込まれてしまったものはもう一度可能の場所へと返されることによって、材料としての潜在力をとりもどす。これがアイデアの材料だ。

●材料の組み立て方

このようにして取り出された材料は、現実的な相貌を剥ぎ取ったとたんあまりにも簡単に感情に支配される。我々が感傷的であれば、この感情にまきこまれ、その素材がもっている力を十分に使用することができない。これはたんなる感情が、まだよく情動としてとりだされておらずその感情のほうに材料が従属した状態であると説明出来る。私小説的なテーマによって、そのときおこりうるステレオタイプな感情が先行し、たんに奇抜な表現ばかりが並び立てられた小説作品ができてしまうようなものだ。 創造的なアイデアとはこの材料の性質を良く見極めることから始まる。先の例からもわかるように一つは感情からとりだされることになる情念のさまざまなかたちであり、一つの哀しみにも無数の情念の変化の可能性があることをみつけることだ。個人の感情をこえて、〈人間〉ではないものにさえむかうこの情念の変化全体を情動とよんで抽出する。たとえば動物になることなどはその最たるものであり、この情動によって人は動物に生成するのである。(『カフカ』参照)。またもう一つはたんなる知覚からとりだされる知覚素であり、この性質として「世界に棲息し、わたしたちを変様させ、わたしたちを生成させる感覚しえない諸力を感覚されるようにすること」(『哲学とは何か』二百五十八頁)という定義がなされている。人間のいない風景にむかって、今まで感覚し得なかった知覚を知覚素としてとりだすのだ。それはまだ手垢にまみれた感覚ではない。これから未知の感覚をもたらす組み合わせを備えた感覚の元素なのだ。 このように取り出された情動と知覚素がアイデアの材料の性質である。これらの材料は、まさにその取り出されかたそのものが、アイデアの使用法と組み立て方を決定していくといえる。

この情動によって何に生成変化するのか?この知覚素によってどんな諸力を感受させるのか?こうしたことはより効果的に二つの最良の合成方法をそれぞれの性質がおのずから選択するようになるのだ。ドゥルーズはあえて簡略で図式的に変形し、振動し、密着し、あるいは切り裂かれるといったように感覚合成態の様子を描いて見せるのだが、それはこの合成態の無限ともいえる組み合わせの類例にすぎないものだろう。 情念と知覚素は平面をつくるという。これらはこの材料がもたらす領土のことなのだろう。芸術はつねに生息地を意味していた。我々がまだ住まうことさえゆるされない領土を形成し、さらにこれらの領土の接合の仕方によって、より複雑に我々はこの領土に歓待されようとしている。芸術家にとっても哲学者にとってもアイデアとは歓待の掟なのである。

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