『ドゥルーズABC全注釈』E-Enfance 子供

#12 生成変化/子供になること

インタビューでドゥルーズはなぜ、「一人の子供」に対応させて、「すべての子供」とか「大勢の子供」とは言わず、「世界の子供」と呼ぶのかそこから考え始めたい。それは子供がドゥルーズの考える「世界」からやってくるからなのだろう。「世界」とは、子供が組み立てを自由におこなったその空間そのものをさしていて、ここで起きた出来事すべてを子供は結晶化させて、やってくるのだ。この出来事が個人的な物語で終わってしまうのならそれは世界の子供にはなれない。世界からやってきた子供は、あらゆる個人的な限定を拭い去って、無限の潜在力をもった世界の出来事をそれぞれ手にする。まず「一人の子供」になるのである。こうしてはじめて多くの子供の中の「一人の子供」として語る事ができるようになるのだ。語り始める時、世界にむかってこの出来事は返されるのであり、彼はその贈物によって「世界の子供」になれるのである。

だから子供への生成変化とは一人の子供が世界からやってきて、世界の子供になるときなのだといえる。『千のプラトー』では、まるでニーチェの三様態のように、ドゥルーズ=ガタリは生成変化の3つの様態を説明している。「まず女性への生成変化と子供への生成変化、次は動物、植物、鉱物への生成変化。そして最後にあらゆる種類の分子状生成変化と微粒子への生成変化」(邦訳三百三十三頁)ニーチェの『ツェラトストラ』には魂の三様態の最後に〈子供〉が登場するが、ドゥルーズ=ガタリにとっては生成変化の最初に登場する。もちろん生成変化の条件は最初から微粒子への生成変化が現れなくては成立しない。だからこの生成変化の3つの様態は、大きな集合からその内部に含まれる小さな集合にむかっていくような段階的なものなのである。女性や子供になることにおいては生成変化における強度の概念が、動物になることにおいては生成変化における多様態-群れの概念が、そして最後の分子化への生成変化には、生成変化そのものの基礎的概念が対応しているのである。つまり生成変化全体を眺めたとき、強度、多様性、分子化の3つの図式が認められるようだ。

子供になることとはすなわちその3つの効果を最大限にひきあげる生成変化のことである。同じく『千のプラトー』では、「スピノザ主義とは、哲学者が子供になることにほかならない」(邦訳二百九十五頁)ともいわれている。スピノザから彼らは普遍的な機械主義を読みとった。それはあらゆる素材が機械としてアジャンスマン(組み立て)できる場所へ移行するということにほかならない。子供たちはあらゆるものを手当たり次第に結びつけて、そこに遊びや意味を作り出してしまう。それが可能になるには、素材の強度と素材の多様性と、一つに固定化したあり方を分解し分子化してしまうテクニックが必要なのだ。哲学者が子供にならなくてはならないというのはこのことを指しているのである。

一人の子供であった哲学者は、世界に贈物をしにやってくる。まず大切なのは諸々の創出は子供がやるような方法でなくては、かならずや失敗するということだ。なぜなら子供時代から全ての人はやってきたのであり、感傷や懐かしさではないそのひとつらなりの持続の中で生きているからだ。子供になることはこの持続を切断しないことであり、子供の反復は一人の生の強度をたかめるからである。子供と断絶した大人というのは幻想にすぎないのだ。

だがしかしここで注意しなくてはならないのは、唯一無二なこの持続が、パパやママや僕の名前で満たされ、もう使い物にならないほど名札と期日で塗り込められてしまうことだ。こうなったらそれは「かつて生きていた子供の物語」にすぎなくなる。もう大人になってしまった僕とは関係のない、遠い昔話になってしまう。これは一人の子供ではなく、がんじがらめの大人が夢想する子供の似姿にすぎない。

誰もが子供であったとき、そんなふうに追慕するものなどありはしなかった。目の前にあらわれてくるすべてものを、名札と期日に振り分けたりなどしなかった。誰のものだとか僕のものでなくてはならないなどと思いもしなかった。だから誰のものでもないものは、誰のものでもあったのだし、今日憶えた大人のしぐさが、明日のごっこ遊びにすぐに使えたのだ。我々は「いま生きている子供」になるのだ。そうすれば、世界が様々な所有と自我によって凝固していなかったことを思い出すはずだから。

まずは世界の子供になるために一人の子供について考えてみよう。ここで語られる「一人」(un)という表現は、アジャスマン(組み立て)を行う際のある必要な注意点が述べられているのだと考えることができる。子供が自然にしていることを、哲学者は子供への生成変化によって為し得る。以下の文脈は『千のプラトー』の邦訳三百三頁から。

アジャンスマンにおける言語の構成は次のようになる。不定冠詞+固有名+不定法の動詞である。これが主体化から開放された表現単位である。ここでのそれぞれの特徴は次のとおりである。〈不定法の動詞〉は限定できない茫漠とした時間のことではなく、あらゆる流動的時間を相対的にあらわしている。また〈不定冠詞〉は、どれでもいいようななにかではなく「出来事」を明確に記述するために障害となる人称や所有を洗い落として、そこで起きた唯一無二な「出来事」をありのままに記述する効果を与えているのだ。だからこの表現単位のセリーに連結した固有名もまた、「出来事」にできあいの時制をあたえるものではないし、その固有名を頂点とした物語の配置に役立つような、配役としての人称や所有関係を無理やり組織化するようなものではない。ここでの固有名はあくまでも組み立てられた図表の中で働く速度と情動の動作主なのである。すべては極端な限定形式化で削ぎ落ちてしまうものを取り込む作業なのだといえよう。

もう少し今度は具体的に考えてみよう。フロイトのハンス少年はどうやって世界を創り出していたのだろう。ドゥルーズが『千のプラトー』で説明していたことをもう一度、思い出してみる。情動のアジャンスマン(組み立て)について説明している場所だ(邦訳二百九十七頁)。

すべてはまず点ではなく線でなくてはならない。馬とハンスは点として、分解できない二つの名前であるうちは連結することはけしてない。しかし一度、この点を馬という線、ハンスという線、というひと連なりの持続した出来事に引き伸ばしたとき、この線同士がまったく同じように連結できるチャンスがうまれる。丸くて硬いひとつの細胞のようであった名前が分子状に分解されるとき、遺伝子のような線になってその細胞をつくりだす出来事のすべてを一列のセリーに表現する。異質な細胞同士が反発していたものが、分子的な分解によって連結できるようになるのだ。ここには細胞の強度と、細胞の多様性と、細胞の分子化がある。馬にまつわる出来事のすべてが遺伝子と同じように一つの線として引き摺り出される。ハンスにまつわる出来事のすべてが同じくひと連なりの線として引き釣り出される。馬は歯を剥き出しにした、という出来事。ハンスは性器を剥き出しにする、という出来事。ここから剥き出しにするという連結部が馬とハンスをつなげるということである。この連結部こそが情動のアジャンスマンなのだ。そしてこの時ハンスは馬になり、馬はハンスになったのだといえる。馬とハンスが連結しているこの状態が彼の世界なのだ。出来事はつながったのである。

この少年がしたように我々は、世界を思うがままに創出できるだろうか。もしや我々の世界は誰かの出来上がっていた世界の借り物で、ほんとうに手触りのある自分のものではないのではないだろうか。我々の幼年期に起きたことさえ、レディメイドな配役があてがわれた貧弱なものになってはいないだろうか。

一人の少年がしたようにひとつらなりの出来事へ情念のさまざまな可能性を開かなくては、この借り物の世界さえ見出すことはできない。あれほど硬くかたまっていたなにかが、すんなりと結びつくような出来事に見えてくるとき我々は、この世界の子供として生きることができるのだ。子供達はみな、それぞれ一つ一つの情念の積み木を手にして、この世界へと遊びにやってくる。

さて、子供になることという生成変化をめぐるもの以外には子供の概念が展開されたものはみあたらない。たしかに『経験論と主体性』において、彼がヒュームからうけた経験論を論じるときには、方法的にこの子供になるという概念の原理と非常に似た考察を引き出している。近接、類似、因果性の3つからなる諸連合原理は、抽象観念、様態、哲学的関係という効果をそれぞれうみだすことで、情念の原理とともに主体を構成的なものとして出来事という概念のようにとらえている。まさに点から線に主体は分解されたのだった。

またニーチェの「ツァラトゥストラ」における3つの変化の「子供」概念はドゥルーズの概念形成に大きく影響したとおもわれるが、直接ニーチェの哲学そのものに「子供への生成変化」を検討した箇所はみあたらない。ニーチェの強度が、世界をあっさり忘却できる子供に見出されたことに応えるように、子供が世界を創出することをドゥルーズはこの概念の強度とした。

またインタビューの中にもみられるようにフロイトのハンス少年の報告が再三にわたり子供への生成変化の事例としてとりあげられている。ハンス少年の症例はドゥルーズのさまざまな作品に登場するが、『精神分析と政治』(1977)におさめられた『精神分析に関する四つの提言』の第二提言としてハンスの症例がとりあげられており、同書にはハンス少年に関する詳しい症例研究ものせられている。

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