『ドゥルーズABC全注釈』H-Histoire de la Philosophie 哲学史(後編)三日目

#20c    ドゥルーズの哲学史(現代の哲学)

ジル・ドゥルーズの哲学の特徴を描くときに、もっとも多くの色彩を提供してくれるのは、実はホワイヘッドであると考えてもよいようにおもわれる。以下のセンテンスは田中裕氏の驚くべき研究成果の多くからアイデアを得たことを明記しておく。ホワイトヘッドとの横断線を引くまえに、いくつか確認しておきたい。

ハイデガーの〈大地〉、あるいは〈襞〉という概念は、ドゥルーズの世界像の捉えかたに大きな輪郭を与えた。芸術作品は〈世界〉をつくりだし、それを開かれたものとして脱領土化をしようとする、しかし芸術作品は同時に〈大地〉をつくりだし重力のようにあらゆるものを繋ぎ止めようと領土化をおこなっている。この解放と引力は概念の活動する場所においても巻き起こっている。概念が活動するのはドゥルーズにおいては内在平面であるが、この内在平面は外部でも内部でもなく、〈世界〉という一枚の布が折りたたまれ襞をなす。〈襞〉は主体化作用でもある。ここで立ち上がる主体は、一つの引力であり、領土化であるといえるだろう。ひとつひとつの〈襞〉は、内部へ作動する個別のたわみをもっている。〈襞〉の中には〈襞〉が作られる。世界を〈襞〉として幾重にも折りたたんだものが主体なのだ。ところがこの内在平面は、同時に開かれた一枚の布としてつながって解放されている。この世界性をホワイトヘッドはじつに簡素に「非連続な連続」として表現する。〈襞〉は独立してモナドのように非連続であり、世界という一枚の布においては連続してるというわけである。

こうした〈襞〉としてのモナドの性質の研究をもとに、晩年の著作によってより先鋭化されて、ドゥルーズは多くの哲学との新たなセリーを作り出すことになる。たとえばライプニッツとベルクソンの同調性について、驚嘆しつつこんな風にドゥルーズは語っている。

「ライプニッツの主題とベルクソンの理論との間の類似点には驚かされる。動機をめぐる幻覚への同じ批判、魂の屈折に関する同じ着想、自由な行為の条件としての内属あるいは包摂への同じ要求、自己を表現するものとして自由な行為の同じ摸写(『自由な決定というものは魂全体から出てくる。そして行為は、それに結び付けられる動的な系列が、根本的な自己と一致すればするほど、なおさら自由なのである。』)そしてまたベルクソンが第二の問題、もはやなされつつある行為に関するのではなく、『未来の、あるいは過去の行動』に関する問題に言及するときも、やはりライプニッツが再発見されるのである」(『襞-ライプニッツとバロック』一二六~一二七頁)

ドゥルーズをつうじたホワイトヘッドの視点によって、ベルクソンがドゥルーズの哲学史に何をもたらしたのかを考えてみよう。ベルクソンの純粋持続では、時間を空間化することなく把握する視点を強化し、生成の概念を豊穣なものにした。ドゥルーズの線の考え方、一と多を符合で結ぶような世界観などは、このように空間化されていない時間の捉えかたから生まれたものである。なおかつ知覚と感情と行動を区別する重大な方法をベルクソンから得ている。ホワイトヘッドは時間を空間化するという観点を排除せず、延長の方法として哲学のひとつの構成要素とみなし、抱握される時空の連続性とともに「延長的連続」を提示している。これはドゥルーズがベルクソンの持続の概念によって進めてきた生成の考え方を、別の仕方であらためて問い直したことに敷衍している。ライプニッツを書く必要があったとドゥルーズがインタビューでのべているのはそのことである。すなわち時間を空間化するという視点をホワイトヘッドのように批判的に導入しているのだ。

またこの連続性と非連続性の対比は、そのままドゥルーズの潜在性と現勢性の二分法にぴったりと折り重なっている。潜在性はベルクソンの概念でいえば〈持続〉である。これは分割出来ない実体的なものであり、時間を空間化できない時空そのものであり、質の連続であると言うことが出来る。一方現勢性は感覚の質的不連続であり、度合の記号の不連続であり、量子的であって、反復されること、延長されることに関わっている。

 連続ー潜在性ー時空ー差異ー此性ー微分
非連続ー現勢性ー延長ー反復ー個体ー特異性

またそれ自身に向かう差異として微分が『差異と反復』で取り上げられたのは、この連続性=潜在性=持続がどのように運動をしているのかを細部に渡って見つめたものでる。(もちろんベルクソン自らが『思想と動くもの』の中で「哲学の目的の一つは、質的微分積分をおこなうことだ」〔岩波文庫/二九七頁〕と書いているように、彼の好んだ表現をドゥルーズが真摯にうけとめたともいえる)それは〈襞〉の内側に〈襞〉をいくつも折り込んでいくように、質が自分自身をどこまでも微分化して永続的に差異をくりかえし新たに質をうみだしている様子なのだ。

ホワイトヘッドの与えたビジョンはこのように微細なものから、大掛かりなものにいたるまで、多くの哲学者の概念を参照しながらも、ことごとく反映されているようだ。

なお蛇足ながらモナドの〈襞〉の発想をシステム論に接続した場合、たとえば次のようなことが考えられる。システムに外がない、というフレーズに有効性があるのは、我々がみな世界内存在であるということだ。つねに世界の中に存在している。しかしその世界から脱したとしても、今度はこの脱出を継起として、たちまち世界はつくられて世界内存在となる。この世界は、もう以前の世界ではないけれども、人は新しい世界内存在であるといえるのだ。とすればドゥルーズが参照したハイデガーの文章のように、「現存在は既に自分固有の存在にしたがって外にある」ということができる。世界内存在でありながら、潜在的に別の世界へと変貌させる可能性を内在性の中に「自分の仕方で」各々がもっていると考えられるからだ。システムから外に出るということがないのは、いつもシステムから脱するという行為がシステムを生成するという行為と同じだからである。無数のシステムが社会の中で、モナドのように窓を閉じながら階層的に共鳴しあっている。人は一つのシステムの中で生きるとき、ほかのシステムの可能性を内在の中に潜在化させる。システムは一つでありまた同時に多元的であるのは、モナドにあらゆる世界がうつしだされているのと同様のことだ。一つのモナドの内側に、多元世界は折り畳まれてしまう。人は一つのシステムの中を生きる、と同時にこのシステムは、あらゆるシステムから構成されたものである。ルーマンのシステム論の白眉はこのようなシステムのモナド的性格であるといえるかもしれない。

あらゆる哲学の概念のアレンジメントがドゥルーズの哲学ではおこなわれているので、哲学史そのもののコラージュを呈しているといえるのだが(『差異と反復』十七頁)、今みてきたように、その考察の深部において実に奇妙な共振がホワイトヘッドという哲学者とともにおきていると考えられる。ドゥルーズはホワイトヘッドに関して多くを語っているわけではない。初期の大著『差異と反復』では「現代哲学のもっとも偉大な書物のひとつ」として、『過程と実在』をあげているにとどまっているし、そのほかの書物で本格的に論じるということはあまりなかった。ただ晩年の『襞』ではまさに、ホワイトヘッドが章をさかれて語られている。また全面的にその概念が接続されているのだ。

そもそもドゥルーズの哲学の特徴とはなんだろう。創造的な哲学史を作り上げたのはなぜなのだろう。それは哲学の創造が出来る場所をつくりだすことであったといってもよいのではないだろうか。出来事の哲学者。そのようによばれるのは哲学がどんな問題においても、概念をつかって働きうる可能性をしめしているものだ。ホワイトヘッドもまた出来事の哲学者である。なぜなら哲学の場所をひたすら提示しつづけたからだ。哲学がそのものの名前でもはや呼ばれないようなものになり、それは言語学であったり、歴史学であったり、精神分析であったり、経済学であったりするような時代にいたるときに、そうした学問のいたるところで哲学の場所をみいだすこと。またそればかりか学問だけでなく、あらゆる出来事の中にその哲学の場所をみいだすことをホワイトヘッドもドゥルーズも目論んでいたのではないだろうか。

そもそも人は簡素な道具によってより複雑なことをなしえることができたはずであった。彼らにとっての哲学の概念創造とは、そんな簡素な道具の一つなのだ。だがしかし問題に直面したとき、えてして人はありあまるほどの絢爛たる道具を、持ちきれないほど抱えて対処しようとしてはいないだろうか。ここで多くの人が悩むのは、問題を解決出来ずに悩むのではなく、もはや問題がなんなのか、道具がなんなのかさえ区別も分類もできないで悩んでいるのだ。複雑すぎることは、意識せずとも圧縮されて知覚されもするが、いざ世界へと働きかけるときには、意識することでかえって、この複雑さの渦中へ丸ごと落ち込んでしまうということが起きうるものだ。そんなとき、何を削ぎ落とすのか。どれだけ手ぶらで済ますことができるのか。いま持っているもので、いかに組み立てるのか。それらを可能にするために、論理的な調合性を測りながら、いくつかの概念だけが洗練され抽出されるのである。そしてすべてはドゥルーズがフーコーとともに語る〈アクチュアル〉なものに向ってその概念から創造し、もしくは新しく挑み続けられる。

「フーコーにとって、重要であるのは現在的なものとアクチュアルなものとの差異だからである。新たなもの、興味深いもの、それがアクチュアルなものである。アクチュアルなものは、わたしたちが [現在]それであるところの当のものではなく、むしろ、わたしたちがそれへと生成していく当のもの、わたしたちがそれへと生成しつつある当のもの、すなわち、〈他なるもの〉、わたしたちの〈他に-生成すること〉である」(『哲学とは何か』百六十一頁)。

ドゥルーズが哲学の死など信じないのは、哲学があらゆる学問の基礎になりえるとか、さまざまな社会的問題にも対処できるというような、その知の権力を信じているわけではなかった。哲学は小さなことしかできない。しかしそれはいかなるものにも屈しない小さなことだ。たとえば恐るべき物事に投げ込まれたとき、強大な悲惨にまきこまれたとき、あるいは真綿でしめるような苦痛が毎日静かに狂わせようとしているとき、人がもう考えられない、考えたくないとあらゆる出来事を拒絶するとき、もう一度でもいい、何か考えることを始めよう、とささやくことなのだ。まだ考えることができる。まだ自分は生きている。まだ考えられるかもしれない。そういう可能性に賭けてきた人々の二千年余りの生が、哲学史としてドゥルーズに音をたてて流れ込んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?