『ドゥルーズABC全注釈』A-Animal 動物

#1 概念生態学

ドゥルーズは飼い慣らされた犬がとりわけ嫌いだとビデオのインタビューの中で語っている。アガンべンが思い出すドゥルーズの講義の様子では、「どんな存在だって自己享楽し観想するというのに、人間と犬にはそれができない」と冗談まじりに言っていたそうだ。どうやら犬そのものが嫌いというのではなく、人間の写鏡でもある「飼い慣らされた存在」に嫌悪しているようである。

ドゥルーズの作品の中にたびたび登場する動物の常連といえば節足動物のダニや蜘蛛たちだ。『ABC』のインタビューでも言及しているが、『千のプラトー』二九六頁には身体が受けとめる情動を数え上げる例としてダニが挙げられている。これはドゥルーズが「動物」という概念を語るときにつねに想起すべき書物として、J・フォン・ユクスキュルの『動物の世界と人間の世界』をもとにしている事情からなのだろう。たしかにユクスキュル自身がダニについて詳細に語っているからである。このダニの挿話は『スピノザ—実践の哲学』の最終章にもあらわれる。そこでドゥルーズが反復するのは「動物であれ人間であれ、その身体をそれがとりうる情動群から規定していく研究」(二一九頁)の大切さなのだ。つまり、エトロジー(動物行動学)の方法を哲学に接続することであり、これこそが彼にとってのスピノザ主義と呼べるものなのである。ここで幾度となく使われる情動という言葉は感情のことではない。感情は主体に結びついている。人間には人間の感情しかない。しかし情動は人間にも動物にも共通してあるものだ。

動物は生きるために「環境世界Umwelt」を獲得する。最初はホルモンによる行動であるのかもしれない。しかしそれを反復することでなわばりや領土を獲得し、ホルモンによる行動を超えて、情動群を生み出すことになるだろう。これはまた芸術の誕生ともよばれるものだ。『千のプラトー』第11プラトー「リトルネロについて」で紹介された実例をみてみよう。スキノピーテティス・デンティロストリスという鳥が木の葉の色で目印を作りだし、領土を作りだす様子が描かれている。性行動や攻撃機能だけではこの習性を説明することはできない。この目印は色彩によって領土を表現しているのであり、ホルモンの変化を表現しているわけではないのである。この色彩の扱いには、人間にも動物にも共通する情動が発見できる。同時に色彩という感覚の組合わせが情動によって編成されており、これこそが芸術の誕生にむすびついているのだ。

敵を知らせるさえずりがくりかえされて一つの領土を作りだすとき、そのさえずりは最小の音のブロックであるリトルネロ(繰り返し)によって、メロディという表現へと変換される。音のブロックはこのとき鳥にも人間にも共通の情動である。領土を作りあげる目印は、領土が作られた瞬間から、メロディや色彩などの固有な質を表現するものへと生成変化するというわけである。生きるために繰り返された指標が芸術の始まりなのだ。「こうした生成変化、こうした出現を、〈芸術〉と名づけることができるだろうか。それが可能なら、領土は芸術がもたらす効果だということになるだろう。芸術家は境界線を建て、指標をつくる最初の人間ということになるだろう」(『千のプラトー』三六五頁)。領土とは生きていくための平面である。生きていく平面は芸術をつくりだす。やがてドゥルーズの哲学の概念がこのような「動物」の生態そのものになっていくにちがいない。それというのも概念は内在平面の上でなくては生きていくことはできないからだ。内在平面という領土においてはじめて、概念は生命をもつのである。

哲学をこのように語ることには、思想の未来が示されることにほかならない。というのも二十世紀の多くの哲学が概念の成分分析であったのに対して、『千のプラトー』において掲げられた旗は、概念生態学とも呼ぶべきものであった。概念がどのように棲息し、どのような捕食をし、いかなる敵に対して戦い、その領土を作るのか、ローレンツの動物行動学の観察をそのまま概念の観察に接続したのだ。

#2 動物になること

一冊の哲学書にかかれた内容を、より細かく精緻に読み解いていく方法とは別に、この一冊から始まる哲学がどのように媒介され、どのような影響において社会化されたり、伝染していくのか、そうした視点から動物に生成変化して新たなる情動とともに変貌することをうながした例がある。『千のプラトー』で登場する「魔術師」と「狩猟集団」だ。

哲学書にまつわる二つの情景をかきとってみよう。深い山に分け入り、いかなる人間もさけながら、小屋の中でともす蝋燭の下で哲学書が開かれている。彼はその書物を自分しか深く理解していないと考え、ただひたすら哲学書を読み続けている。一方では、大きな国家機構の広場で集団がつめより、ただ連帯することだけで興奮する人々を前に、たいまつをかざすようにして哲学書がかかげられている。そこでは書物の一節がシュプレヒコールになり、意味を失い断片となった声をあわせることだけに熱狂している。このような「環境世界」で彼らはいかにこの書物を生きることが出来るだろう。

ドゥルーズとガタリは彼らに<動物-になる>ことを誘惑する。隠者にはひとりで群れることを、運動家には大勢で単独の変則者になることを仕向けるのである。そのとき彼らは動物になることで、「魔法使い」や「狩猟集団」へと変身することが可能になるのだ。『千のプラトー』第10プラトー「強度になること、動物になること、知覚し得ぬものになること」でおもに展開されている〈動物-になる〉というこの概念には二つの問題のセリーが接続されている。一つには我々の身体が「種」や「属」などにおける特性で規定されるものではなく、数え上げられるような情動で組みあがっているということ。そしてもう一つは「どんな動物も、どんなものも、それが世界と結ぶ関係を離れては存在しない」(『スピノザ—実践の哲学』二二一頁)と語られているような、「環境世界(ウムヴェルト)理論」の問題である。動物に生成変化する哲学にはいつも情動の組合わせと環境世界の問題が関係しているのだ。

さらにドゥルーズはクレッソールにあてた手紙で〈動物-になる〉ことについて、次のように表現している。「自分が一匹の野獣だと思い込むことではなくて、身体の人間的組成をときほぐし、身体の強度域を横断すること、そしてひとりひとりの人間が自分の強度域を見出しそこに巣くった複数の集団、複数の生物群、複数の種を見出すことだ」(『記号と事件』二四頁)。情動とはかくも個人をこえてしまう生成変化なのであり、環境世界に固有の、それぞれのやりかたでおこなう変化のことなのだ。

隠者と運動家が〈動物に-なる〉という生成変化を行なうことで、どのような情動の組合わせがそこでは観測できるのか見てみよう。まず隠者が生きている上は、一つの環境を背負いながら別の場所へとすすんでいかねばならない。隠者も生きられる環境から、この「環境世界」から完全に離反しつつ生きることはできないのだ。別の環境へ向かわれる最前線でこの隠者はいつも自分の生きた世界における群れを全部ひとりの中に飲み込んでいる。この戦いは個人の戦いではなく生きられる環境の戦いであり、いいかえればそこで生きる群れ全体の戦いであるといえるだろう。まさしく動物とは群れることなのだ。一匹がなわばりの極域で戦うことは、なわばり全体の戦いなのであり、このとき隠者は魚群のような無数の群れに分身する「魔術師」になるのである。

また運動家は、この集団の熱狂がいつも国家的家族的な階層に接続させようと企んでいることに気がつかねばならない。徒党を組む群れの中に溶解されるのではなく、なわばりにおいて偶発的にあらわれる敵と縦横無尽に戦いながら、なわばりそのものを変質させていくこと。固定したなわばりを固持しようとすれば運動家はすぐにでも国家や家族の捕獲装置に捕まってしまう。動き回るなわばりをもつ運動家。群れから浮かび上がってくるその人をドゥルーズとガタリは「変則者anomal」とよぶのだ。一人一人の自立した運動家が群れるときそれは狼のような「狩猟集団」になるのである。

ドゥルーズとガタリはこうして〈動物-になる〉ことを次のようにまとめる。

「第一原理は、群れと伝染によって、また群れの伝染によってこそ、動物への生成変化が起こる。第二原理は……多様体があるところには必ず例外的な個体が見つかるし、動物に〈なる〉ために同盟を結ぶべき相手はそうした例外的個体にほかならない」(『千のプラトー』二八一頁)

いかなる環境世界で概念は生きることができるのか、そこで取り出される情動は何か。ドゥルーズとガタリの哲学の生態学がここにはある。

#3 動物のクロニクル

ドゥルーズにおける動物概念の小さな歴史をみておきたい。

一九五二年にドゥルーズが作った教科書『本能と制度』では、まだ動物概念は独自なものにはいたっていない。しかしながら、H・ヘッディガーの『囚われの野生動物たち』における動物がそれぞれ固有な世界をもち、その環境世界が外敵から身を守るための刺激の貯蔵庫であるというような箇所を引用してくるあたりに、動物概念の萌芽が感じられる。ダニはダニ世界、蜘蛛は蜘蛛世界をもっているという環境世界概念を直感的に把握していたと思われれる。
 
『意味の論理学』までの著作群では、本格的な動物概念の吟味というものはない。たとえば『ニーチェ』の中で論じられるライオンや蜘蛛、驢馬等は、ニーチェの著作における概念的動物であって、これらを説明するのはニーチェの思想の吟味であり、ドゥルーズの動物概念を作動させたものではないのだ。

一九七〇年の『スピノザ—実践の哲学』において、完全に生成変化した動物概念が登場する。スピノザの「情動」という概念を思考するうちに、ドゥルーズはユクスキュルのダニの分析を接続し、このダニの観察の方法から「情動」という概念の具体的な作動の様態を提示していく。これ以降、ドゥルーズにおける動物概念の図式は、「スピノザ主義—動物—情動」のトリアーデをもって反復される。またここで展開された議論は、『千のプラトー』 でスピノザ主義者について語るときに、もう一度反復されることになるだろう。

『アンチ・オイディプス』では、あたかも動物概念がこの後の書物で具体化されるのを用意するかのように、塩基の様態にまで切り刻まれながら抽象的に論じられる。これはこの書物の特色なのだが、個別的な諸概念の運動をいったん分子的な世界に切り刻んで、世界観察そのものを組み立てる原理的なところから始めるために、諸概念の運動の特異性がみえにくい傾向にある。たとえばまるはな蜂や雀蜂について語られるのは、これらが世界においていかに機械状に接続しながら生産しているかということを説明するためである。その中では動物概念の特徴である群れという観点もあげられているとはいえ、それさえも有機体におけるもろもろの働きの生産を、さまざまな複合機械のもとに捉えなおした世界像のあらわれのひとつであるとみることができる。動物は遺伝子にまで分解されるのである。

続く『カフカ』では、長編小説をのぞいた彼のほとんどの小説が、本質的には動物を描いたものだとした上で、そこに現れる動物がまだまだオイディプス的で、意味作用的であると語られる。しかし、これらの動物への変化は分子的な動きの問題を含んでおり、長編小説を準備する作品や長編小説そのものは、動物を扱わないにもかかわらず、〈動物-になる〉という概念がもくろむべき生産をおこなう機械状の配置がなされているとされる。

一九八〇年、『千のプラトー』において、動物概念はひとつのプラトーを形成するほどの複数的体制をもちはじめる。先に書いたように、動物概念はこの書物で哲学における概念の行動観察に接続され、群れと変則者の問題、スピノザ主義と情動のアレンジメントの問題、生成変化とは進化ではなく同盟であることなどが語られるようになる。同時に〈動物-になる〉という概念は増殖して、〈子供-になる〉〈知覚しえぬもの-になる〉というふうにプラトーが形成されていく。

『フランシスベーコン・感覚の論理』では、動物概念はふたたび潜在的になるが、色彩の変調からフィギュールの破壊と創造まで、表現のさまざまな局面において理論の背景で作動している。動物は〈肉のイメージ〉をもちはじめ、それが殺戮されたり残酷にあばかれたりする〈器官なき身体〉の極限が描かれる。動物概念はこのようにして〈器官なき身体〉に接続していく。

『シネマ』までくると、動物という概念は完全に溶解してしまっている。それはすべてもっと広範な生物にとってかわられ、この生物という概念が「イマージュ=運動」の世界で、図式的に捉えられるのである。生物は知覚を発生させることで、物理的に固く接続されていた作用と反作用の〈あいだ〉を切り離し、その〈あいだ〉にはさまれた知覚が時間的・空間的な作用と反作用の〈あいだ〉に「ずれ」を生じさせるようになるというわけである。

ドゥルーズが亡くなった後、それにまるで応えるように「動物論」について後年のデリダは多くを語ることになったが、その殆どの発言にはハイデガーのDas Manが響いていく。ハイデガーが発生生物学をひきながら、いかに人間と動物が違うのか、環境世界に埋没せず、「世界形跡的」であるのかを述べるときに、本来の人間あらざるものとしてのDas Manが重なって見えるのは、「動物と人間は違うもの」と考えているからである。端的に言えば動物になってはいけないと考えている。しかしこの動物と人間の分断線を常に性的差異や生政治の観点から批判的に捉えながら、それでも動物と人間に別の線を引くのが後年のデリダの語り口であった。ドゥルーズはハイデガーが動物にとっては「貧困な世界」であると考えたユクスキュルの「環境世界Umwelt」の方に焦点をあてた。動物を未完全な世界の持ち主とは考えず、逆に完全な環境世界を実現していると考えて、我々に動物のように個別の環境世界を持つべきだと促した。それが動物になることなのだといえよう。

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