吉川浩満『哲学の門前』について

こんな言い方をすると奇妙なことだが、もし吉川浩満という人が昔ながらの哲学科にすすみ研究者であったのなら彼は、今日のような哲学者にはならなかっただろう。カントをただひたすら繰り返し読み解釈を突き詰めるような学者になっていたと思う。その彼のひたむきさは本書を読む者なら容易に想像がつくはずである。

遠くて近いところに長年いた私が本書を読むとそこにはまるでいくつかの私の分身がいるような気持ちになる。もちろん私は、彼ほど真摯でもなく優しくも聡明でもないけれど、少なくとも彼の社交性と多面性は絶対の孤独から来るものであることだけはわかるからだ。

『哲学の門前』が真に哲学書であると言えるのは、こうした絶対の孤独から常に書かれているからである。言い換えればどんな形であれ最後に人は自分の頭で考えるしかないのだ。背負ったものを全て下ろすことなど誰も出来はしない。彼がよく笑いよく頷き人を受け入れようとしているのは彼が常にただ一人だからである。そう言う〈私〉を彼の中に見つけた。

本書は章ごとに吉川の人生で起こった興味深い出来事について話し始める。忘れ得ぬ人々が登場する。この出来事と人物は、後続する〈思考パート〉で具体的に検討されて思考は動き出す。哲学が息をしている。喘いだり、啜り泣いたり、唸ったりしながら、学術と人生が重なって鼓動している。

高度なコミュニケーション能力が高評価され必要ともされる社会が作り出した仮想的病としての〈コミュ障〉。味覚が複数の受容器の総合であるように道徳も複数の受容器をもち、個人の運命によって複数的に構成される政治スタンス。性表現の自由さを議論する前にセクシャルマイノリティやジェンダー差別をされる側が無知を啓蒙せねばならない膨大なコスト。カフカのアフォリズムとウォーレンの『ストーカー』を結合した「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ。なぜなら君は悪から善を作るべきだ、それ以外に方法がないのだから」をめぐる闘争と支援のトポロジー、ミシェル・レリスの『幻のアフリカ』のように勤労日記の中に細やかにその都度発動される情動と思考が結晶化した欠片、二人で創造する哲学史の伴走者山本貴光

哲学の門前だと思っていた場所は、気づくたびに門の内側になっている。前を遮るように立ちはだかる門は入り口ではなく、ただそこから外へ向かうための出口だったにすぎない。

カフカの門番が「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえ一人のものだった」と言う時、その入り口は内なる外側へと開け放つための出口に反転する。

哲学と呼ばれる聖域は存在しない。特権的な分野は存在しない。この門の外側と内側が反転するその場所こそが哲学の領域だ。『哲学の門前』という書物はその言外において哲学を指し示している。吉川浩満という一つの生が身近な良識と偏見に晒されながら、自らのドグマと後悔と苦悩でもがくその身ぶりにおいて、それはもはや哲学が生を得たと言う他はない。


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