『ドゥルーズABC全注釈』W-Wittgenstein ウィトゲンシュタイン

#60 ウィトゲンシュタインとの距離

願わくばWについて質問するならホワイトヘッドにしてくれたらどれほど面白かろうと残念に思えるけれども、映像をみても、ドゥルーズはかなり疲れている様子で、一気に端折ってしまったような感触はいなめない。Xについてなら<対象=X>という概念についても質問してみたいところだった。いづれにせよドゥルーズのウィトゲンシュタインに対する嫌悪感は理解しがたいもので、インタビューの疲労が言わせたものであると思いたいほどだ。

たしかに『論理哲学論考』にあっては、ドゥルーズのいう創造的な多様性を制限するような形式はある。たとえば世界との説明と指示の関係は、彼が一対一対応の「写像関係」であるとしている限りにおいて、合成=創作の自由を認めないかのようだ。しかし『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』の記述にあるようにAbbildungという数学的な術語そのものを使用せず、Bildという広範な意義をもちえた語をウィトゲンシュタイン自身が意図的に用いていることは、よく知られている。鏡のように絵を写し取るということだけでなく、ひとつの構造−構成的なモデルを意図することでもあり、そこにはドゥルーズの考える合成的内在平面との共鳴を見れないわけでもない。

しかもドゥルーズが偏愛してきた哲学者の系譜は、みな「別の仕方で」最初から、哲学者一人がその内在平面と概念を打ち立てた人ばかりであり、特にウィトゲンシュタイン後期の言語ゲームと生活様式の概念運動は、ドゥルーズが創造的であると評する多くの哲学者の仕事と同じような要件を兼ね備えている。

すべては推測の域をでないが、おそらくドゥルーズの批判の矛先はバートランド・ラッセルが『私の哲学の発展』でウィトゲンシュタインの『哲学探求』を批判した意見に近いものがあるのかもしれない。それは「言語の世界は、事実の世界から完全に切り離すことができる」というこの書物の示唆についてなのだ。もし世界とは無縁の言語の自由があるなら哲学的な創造はことごとく些末なものになってしまう。なんでも壊してしまうとドゥルーズがいっているのは、いわば新しい言語の体制によって彼が新しく契約した世界と言語の関係についてなのだ。こうした事情はウィトゲンシュタインの弟子たちによってさらに強化されていく。世界を理解しようと考えることは彼らにとっては古ぼけた迷信のようなものなのだ。それよりも言語運用の分解に専心せねばならないのである。哲学者の形而上学的言葉から日常語へと<語の使用を>とりかえすために、言語の実験と冒険は制止されるのだ。(たしかにウィトゲンシュタイン本人にとってそれは言語への新たな信頼を意味していたのであろうけれども)

しかし『哲学探求』の二五五番のパラフレーズにおいて「哲学者は、病気をとりあつかうように、問いをとりあつかう」というある種の皮肉とも読めるような文章にも、ドゥルーズが<批判と臨床>という概念を同一の平面で動かそうとしていたことが思い出されはしないだろうか?致命的な切断線があるとはいえドゥルーズが罵るほどには、ウィトゲンシュタインとの距離は遠いようには思えないのだ。

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