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雑踏の中で足を踏みつける人と踏みつけられる人

突然かつ乱暴な分類だけれど、もし人生が、多くの人に囲まれて、街の雑踏をかき分けつつ、自らの望む方向に向かって進んでいくようなものだとしたら、人は大きく分けて4つに分かれるのではないかと思う。

まず第一に重要な区分となるのは、他人と接しながら過ごす中で『人の足を踏みつけないように出来る限り細心の注意を払うか』(もちろん、恐らく全く人を傷つけずに生きるのは不可能なので、あくまでも志向というか考え方の問題だ)それとも『ある程度人の足を踏みつけてしまっても問題ないと考えているか』だ。

もちろんこれはスパッと明確に二つに分かれるものでもなく、ある程度グラデーションをもって分かれてはいるが。

そして、基本的に人は踏みつけ踏みつけられながら生きていくものだろうが、もう一つの分類軸がいざ実際に人に踏みつけられた際に『怒る』か『ある程度仕方ないと思う』か、であるように思う。

かくして、この2つを組み合わせると

①自分では他人の足を踏みつけないように細心の注意を支払うが、自分が踏みつけられた場合には怒る

②自分が他人の足を踏むことを特に気にせず、自分が踏みつけられた場合でも特に気にしない

③自分は他人の足を踏まないように注意し、自分が踏みつけられても、特に気にしない

④自分が他人の足を踏むことを特に気にしないが、自分が踏みつけられた場合には怒る

という大きく分けて4種類の人がこの世界には存在することとなる。

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(もちろん、そもそも大通りを外れて暗い小路に落ちていく人や山にこもって降りてこない人、暴力的に隙さえあれば人を踏みつけようと狙う人、あるいは生まれながらにして人力車か何かにのって特に人を踏みつけたり踏みつけられたり、ということなどを気にかけず生活している(多くの場合、そういった人は自ら直接的にではなく、間接的に人を踏みつけていることがしばしばだ)人も少しはいると思うが、そこまで数は多くないだろう。)

こうして改めてまとめてみると、どう見ても、論理的な一貫性という意味では理にかなっているのは①あるいは②の、自分が心掛けていることを他人にも想定する姿勢に見える。

③のように、自分は人を傷つけないように細心の注意を支払いながらも、誰かに傷を負わされることを諦めて背負っていく天使のごとき人が数少ないことは当然と言えば当然だろうが、この世界には④の自らは人を傷つけることに無頓着でありながら、いざ自分が暴力的な態度や攻撃の対象となれば突然怒り狂う、といった人は比較的多く存在するように思える。

別にどこか道徳的な高みから誰かのことを評そうと言う意図はないのだけれど、理解が難しいというか、自らが過去に振るった刃がいざ自分に向けられると驚きとまどい、怒り狂う人がそれなりに居るのは少し興味深い事ではある。

ただ、③のように、人を傷つけることに対してとても神経質で、かつ自身が傷つけられるそういった人々にとって、人と接しながら生きていくのはかなりしんどいものとなる可能性が高いし、あくまで個人的な体感だけれどいわゆる心を病むというか、鬱っぽくなってしまう人はこのタイプも多いのではないかという気がする。

恐らくこういった性質はどちらかというと生来的なもので、後天的に何とかするのは難しいのだろう。

となると、別にだからと言って何かできる事があるわけでもない、ということになる。

ただし、最近ふと思ったのは、④のようなタイプの人に対して若干腹が立つことはあれど、人は足を踏みつけられたって大して大きな問題もなく生きていける(これはあくまで比喩だが)ということだ。

何十億人が雑踏の中を行くのだから、人生のうちで人の足を踏みつけることも、自分が踏みつけられることも、数えきれないくらいあるだろう。

心健やかに生きていくためには、②くらいの、そういうこともあるさ、と鷹揚に構えてそこまで気にしない姿勢が大事なのかもしれない。それも生きていく上での強さの一つなのだ。

なんというか、これはうまく言葉にするのが難しいのだけれど、人生全体の刺激というか、送ってくる信号に対しての感度を少しだけ鈍くする、といったようなことが何らかの形で出来ればいろいろと役に立ちそうだ、などと思ったりした。

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