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札幌の冬夜に染み渡る、煮干しラーメンの穏和。

「和だしらぁめん うめ吉」2020年12月25日(金)

行事や催事が多過ぎることへの違和感は、おそらく我が人格ゆえとしか言いようがない。
この夥しい行事の数々に、静かに抵抗しつつ翻弄されつつ、窮屈ながらに生きることの苦悩を察する者は少ないと思われる。
そういう意味で敢えて失礼を承知の上で個人的心理を言えば、2020年は奇怪ながらも窮屈から逃れられた年でもある。
仕事納めという習わしも、どこか押し付けがましさを覚えながら、その呪縛を振り払うように何かを求めた。
突如として襲来した寒波が雪を運び、寒さを深めてゆく。
その過酷な状況下で、選ばれし物はラーメンのほかなかった。
この寒さの極限は、札幌のラーメンの多様性をもたらしていることは間違いないのだが、過酷な寒さであることに変わりはない。
煮干しラーメンというジャンルも、札幌においてはまだまだマイノリティに位置づけられる。
札幌の大動脈たる国道36号線の歩道の雪に、ラーメン店らしからぬネオンが反映していた。
「金色の煮干し塩らぁめん」という明快な訴求は、人の迷いを跡形もなく打ち砕く。

店内に入るや、一瞬にして曇る眼鏡が券売機の文字をひた隠した。
文字の形を追って「塩らぁめん」のボタンを押した。
会社員らしき客が2名いたが、至って静かな気配が漂う。
すすきのの東外れにある立地上、おそらく毎年のように締めのラーメンを求める酔客がいたことであろう。
確かに金色と冠するに相応なスープに、静かに揺蕩う油の照り、そしてほんのりと煮干しの香りが浮かび上がる。
その中に、梅を思わせる紅一点のようなナルトが中央に配され、メンマとチャーシューが麺を覆い隠していた。
その配置を壊すように麺を手繰り寄せた。
煮干しの香りを抱く太く伸びやかな多加水麺。
それを喉を貫くように滞りなく吸い上げた。
すると、以前に青森で食した煮干しラーメンとの差異が脳裡を駆け抜けた。
青森のそれは麺もスープもその存在を鷹揚と主張していたが、この店のそれはともかく穏やかに尽きた。
メンマにもチャーシューにも、青森のそれとは異なり煮干しの癖を排除していた。
食べ慣れない煮干しラーメンに対して、加齢とともに濃厚なる物への無意識の敬遠心理も働いているかもしれない。
もしかすると、と思った。
2020年最後のラーメンは煮干しで終わる、という自らの新たなラーメン文化の予兆を覚えた…

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