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海の贅と絶妙の赤酢が絡まる、生ちらし定食の極み。

「和処 さゝ木」
2021年8月6日(金)

体に多様な変調を来した春が過ぎ、
そこからの未知なる体験と不安が過ぎ去った。
克服による安寧の回復は、当然なほどに貪欲なほどの食欲を取り戻した。

強烈過ぎる日差しを頭上から浴びて、その店へと汗を振り絞って急いだ。
5つの輪の空虚な熱狂、あるいは狂熱の空虚を尻目に、地下へと伸びるその店へ静かに足を延ばした。


地下街というには寂しい店が連なる中で、すでに行列を成す店に到着した。
時刻は11時20分を指そうとしていた。
この店のランチのために静かに待ち続ける人々。
その心理状態は容易に想像できた。

知人に教えられ、行列に並び、そして食した赤酢の寿司定食の追憶。
人は初めて食した感動を忘れることができない。
その感動を携えたまま、新たな感動の上書きを心の底で望んだ。



社会的間隔を設けた列の最後尾に着くことにした。
11時30分の開店まで残り5分もない……
なのに、それは果てしなく長く遠い道程のような気がした。
店の扉が開き、次々と手に消毒液を吹きかけて店に入った。
カウンター席に座すと同時に躊躇なく「生ちらし定食」と口ずさんだ。
威勢よくも寡黙に調理する大将の姿がカウンター越しに映った。
次々と来店するオーダーに、淀みなく応えて仕上げていくと、
突如として大きなトレイが目の前を塞いだ。
天ぷら定食を注文した隣席の若者は、一眼レフカメラで様々なアングルを押さえている。
天ぷらは、もはや麗しいモデルに見えるのだろう。

ともあれ、生ちらしと向き合う時がやってきたのだ。
この3ヶ月で2回の入院と手術、病院食の日々、その後の慎ましい食生活を振り返り、
あらためて姿勢を正し、生ちらしを向き合う。
弱りきった生命力も食欲も再生するものなのだ。
大きなネタの下に眠る赤シャリは、関東ローム層を思わせながら切迫する迫力であった。
それは迫力だけではない。
生魚の多様性に味の奥深さをもたらすのは、赤酢のまろやかな芳香だ。
思いのままかぶりつきたい衝動を押さえようとアラ汁で箸を休めては、
丹念に魚と赤シャリがもたらす江戸前を口内で抱きしめるばかりだった。
目の前で生ちらしが減っていくごとに、赤シャリへの、江戸前寿司への、この揺るぎようのない愛と確信を得る。
テーブル席から立ち上がると、カウンター越しの大将が手を止め、「ありがとうございました」と野太く張りのある声音が大満足の体に温もりを添えるのだった……

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