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北の大地で、牛タンの本場の味を求めた幻。

「牛タンの笑や」2021年1月23日(土)

この店の情報を得た時、砂浜で折り重なる波のように記憶と思い出が沸き上がった。
仙台の老舗の一角を成す店の分店と知れば、ことさら高波となって襲いかかる。
仙台に住んでいた頃、食べ歩き求めた牛タンの数々。
あの食感、あの風味、あの満足…
すべてが“あの”という代名詞に変わるほど、記憶と思い出の只中に埋もれてしまったのだ。
確かに、チェーン店化した牛タン専門店は札幌都心部にも存在する。
しかしながら、埃の被った記憶と思い出は波で洗われ、新たな欲望と成し、“あの”から、“この”という代名詞へ変えるために、過去から現実へ向かって歩調を早めた。

18時過ぎの凍えるような空気が支配する札幌中心部。
人影の少なさは仕方ない。
電車通りに面したビルの地下へと急いだ。
その店の暖簾すら仙台の名店の風格を漂わせた。
煙が燻るカウンターはすでに客で埋まっていた。
座敷席に導かれた。
その雰囲気も老舗の体裁を取り繕い、その期待の高ぶりは頂点へと達しようとしていた。
メニューを眺めると、宮城名物のメニューが連なり、店内に充満しつつある香りがどこか単一的で持続的な、時折抑揚の効かせながら微醺を横切って、いっそう食欲を掻き立てた。
静かな興奮とともに、「牛タン1人前」と「三角定義あぶらあげ」を求め、焼き上がる時間を考慮して「キムチ」で時間稼ぎすることを目論んだ。
若々しい客たちが占拠するカウンターの奥で、ひたすら焼かれる牛タンの音が重厚な悲鳴のように響くのだが、牛タンの到来はやけに遅く感じられた。
それは、他の客の注文に追われているせいなのだろうか?
それとも、あまりにも待ち侘びた欲求の発露のせいなのだろうか?
ようやく訪れたそれは、記憶と思い出の交錯の只中で空虚に沈んでいった。
「牛タン」それ自体に厚みはなく、しかも焼き焦げが著しい。
口内で戯れるあの弾力、あの歯切れは追憶の彼方へ消え去り、焦げ臭い香りだけがただじっと佇むばかりであった。
「三角定義あぶらあげ」も同様に焦げ目が強く、焼き過ぎの感は否めない。
事情はどうであれ、本場の味は本場でしか辿り着けないということなのだろう。
仙台にいたあの頃は追加注文が当然だったが、今は追加注文は回避することにした。
“あの”という代名詞は、そのままにしておこう。
いつか本場で“あの”本場の味を食することを願って。

外は明らかに宮城では体感できない粉雪が静かに揺らめいていた…

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