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すすきのの灯火が猛吹雪で白む、ちゃんぽんの誘引。

「ちゃんぽん一鶴すすきの店」2020年12月19日(土)

この日、すべては成り行き任せになってしまった。
確かに、地方を列車で巡る美味の旅の予期せぬ中止によって、身近な場所で新たな発見ももたらしたのも事実である。
日本酒と寿司を巡る小さな冒険もそろそろ終焉の頃合いであった。
すると、雪が猛然と襲いかかって来た、何かを挑発するように。
腹元にはまだ余裕があった。
問題は、この吹雪下の中で、彷徨うことなく確実に辿り着ける何かである。
それは何か?
22時とあれば時間的な拘束はないはずである。
一方、すすきのエリアの状況はと言えば、年末の行き交う人も少なければ、殷賑とした灯も心なしか少なくなったような気がしてならなかった。
そんな閉塞感の中で、浮かんだのは「ちゃんぽん」の専門店であった。

この数年で働き方は大きく変貌し、猛烈に突き進む時代の幕は降りたのかもしれない。
その幕を少しだけ上げて思い出を垣間見るように、この店の扉を開けた。
券売機で昔と同様に「ちゃんぽん」のボタンを押し、店のいちばん奥のカウンターに座した。
記憶の断片が目まぐるしく甦る。
あえて大袈裟に言えば、この店に通い詰めていた頃、それは終わりの果てを知らぬ膨大な業務をこなし、時には残業後の深夜、時には徹夜に明け暮れていた、まさに人生の頂点とも言うべき時でもあった。
2名しかいない客もどこか大人しい。
以前は深夜や朝方でも賑わい、時にはいびきをかきながら泥酔した客も見受けられたが。
我に帰れと言わんばかりに、「ちゃんぽん」が置かれた。その姿もまた以前と同様で歯切れ良いキャベツともやしが堆く盛られ、にんにくの強い香りが微醺を帯びた体を急かせた。
ブラックペッパーを振り落とし、「ちゃんぽん」全体に鋭利な味覚を宿すことも忘れてはいない。
思い出は深まるほど、その食べ方の流儀さえ身について離れはしない。
ひと口啜ったスープの脂が口内全体をにんにくの香りで包み込んでゆく。
極太の麺の食べ応えさえ、確信的に人生の頂点へ逆行しているようだ。
次の流儀を思い出した。
紅生姜の投入である。
ところが、カウンター席にその姿は見受けられない。
テーブル席を何気に窺ってもその存在は消え失せている。
おそらく対策として、あるいはコストダウンの一環として紅生姜を排除したのだろうか?
1名しかいない笑みを忘れた男性スタッフは、ずっと厨房の中に佇んだままで、仮に呼んだとしてもむしろ良い思い出は暗転する予感がした。
良い思い出のためには沈黙も必要なのだ。
紅生姜の不在でも、この店の「ちゃんぽん」の本質は不変であると自らを諭した。
ラーメンとも蕎麦とも異なる充足感が漲って来た。
人生の頂点に味わった「ちゃんぽん」の完食。
頂点は衰退の一歩とも言えるが、その完食は人生の新たな頂点への小さな一歩かもしれない。

地方を列車で巡る美味の旅に行けなければ、思い出を巡る美味の掘り起こしも悪くはないものだ。
夜の深まりとともに、雪の勢いは止まることを忘れているようであった…

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