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【人生最期の食事を求めて】灼熱の神戸中華漫遊紀行

2023年8月13日(日)
「天獅堂」「長城飯店」「三宮一貫楼元町北店」(兵庫県神戸市中央区)

伊丹空港に到着したのは、8月12日(土)であった。
到着ロビーに降り立った矢庭に、日本とは思えない熱気と湿気に包まれた。
リムジンバスをじっと待つ間にも、汗はバックパックを背負う背中やキャリーケースのハンドルを手にする掌にまで及んだ。

炎天下の大阪国際空港(伊丹空港)上空

2023年2度目の関西の旅路だが、その灼熱は想像を超えるものであった。
大阪市内のホテルに到着早々に夥しい宿泊客のチェックイン待ちに時間を奪われてしまった。
DXの活用によって迅速なチェックインができないものなのか?
インバウンド客に混じって私は心の中でそう呟いた。

ホテルを出て道頓堀に向かった。
東京とのそれとは比較にならないほど大群が心斎橋を埋め尽くす。
道を塞ぐほどの群衆、四方八方から押し寄せる喧騒、多様な言語のざわめき、どこを歩いても華美すぎる店頭POP。
何もかもが過剰な街は、尋常ではないほどの暑さと相俟って私を途方もない疲労へと陥れるのだった。

混沌を超えた混乱の道頓堀

翌朝のホテルの窓辺は、前日以上の灼熱を予感させる放射を浴びて近寄りがたい熱気を宿していた。
その熱は私を突き動かした。

乗客の疎らな地下鉄に乗り込み、大阪駅へと向かった。
関西エリアの魅力は何と言っても電車に乗り込みさえすれば、文化の差異を体感できる街へ向かうことができることだ。
京都はもちろんのこと、日本最古の木造建築物を有する奈良、南下すれば無頼の小説家中上健次の世界が待ち受ける和歌山。
だが向かったのは、そのアクセスの良さや中華街を有する神戸だった。

早朝からホテルの窓辺は近寄りがたい熱を帯びる

車窓に過ぎゆく見慣れない風景にずっと目を奪われたまま、JR三ノ宮駅に降り立った。
2023年の春にも訪れたこの街の朝10時は、まだ活動するには早い。
大阪同様、神戸も目の眩むような暑熱を孕んでいた。
けれど、大阪ほどの群衆や華美はなく、通り過ぎゆく人々もどことなく大人しい。
細い小径が長々と続く三宮本通商店街を抜け、元町駅周辺を抜けて南京町に辿り着いた。

神戸南京町

日本三大中華街のひとつである南京町。
大小様々な店が揃う日本最大の中華街である横浜中華街。
こじんまりとしていながら最も歴史のある長崎新地中華街。
横浜とも長崎とも異なる趣きと親和を宿す南京町の朝は安寧とした風情なのだが、南京町の入口付近ではすでに豚饅頭で著名な店先に長い列を成していた。
それは、もちろん想定していた事態だった。
ただ驚愕すべきは、頭上から降り注ぐ日差しの強さに屈することなく、黙して語らない日本人の我慢強さである。
ここ最近目にするハンディタイプの小型扇風機を片手にした若い女性たちの集団、タイルを首に巻いた太りがちな男性たちが立ち尽したままのその姿は、この国の78年前の似姿ではあるまいか?

遠くなった1945年8月15日。
どこまでも青く澄み渡る空と太陽の灼熱が降り注ぐ只中に鳴り渡る玉音放送。
それはまさしく敗北の日であった。
幼い頃から太平洋戦争の敗北をなぜ「敗戦」と言わずに「終戦」と言うのか、謎というほかなかった。
それは不可解で言い知れぬ情報操作に思えてならなかった。
何事もなかったかのように発展し続けたこの国で、中華料理を食べ歩くという嗜好は78年前に誰が想像できたであろう。

天獅堂
名物の中華ちまき

すると、若い観光客のあしらい方に慣れた男性スタッフの声が響いた。
「本場の中華ちまきは、うちでしか食べられないですよ」
鮮烈な赤を纏った看板がやけに目立つ「天獅堂」という店先だった。
なるほど、中華ちまきとは笹の葉でもち米を包んで蒸し上げる独特のメニューで、小腹を満たす上で気軽に食べられるという点で最適なのだろう。
鶏ちまき、海鮮ちまき、肉きまちの3種類があるが、肉ちまき(400円)への欲求が直感的に昂ぶった。
なにせ暑さの中で食べるとなると幾分抵抗感が生じるのは当然だろう。
威勢の良い男性スタッフが通り過ぎる人々を逃すまいと、“中華ちまき”を連呼する。

思わず私は前方に置かれた蒸し器の熱気にひるんだが、勢いに任せて「肉ちまきください」と言い放った。
「ありがとう!」と関西のアクセントで愛想よく応えると、男性スタッフは隙もなくちまきを蒸し器に置いた。
それから5分ぐらいだろうか。
プラスチック容器に置かれた肉ちまきが手渡された。
その熱量が掌に伝わってくることは容易い。
店のすぐ横にある椅子に掛けた。
日差しが遮られるだけでも有り難いという気分で肉ちまきと向き合った。
笹の葉にもち米が付着しないように優しく慎重にめくってゆく。
うっすらと茶色い全貌が見えかけたその時、ひとくち噛みついてみる。
味は思ったよりも慎み深く、もち米の粘り強さが口内にしがみつくようだ。
食べ進めると奥から豚肉と椎茸の塊が奥に潜んでいた。
その具材のどれもが出しゃることなくもち米との穏やかな融和を図っている。
もち米はもちろんのこと、じっくりと蒸された豚肉も椎茸も咀嚼を拒絶するかのような柔軟性で、いとも簡単に笹の葉だけを残して消えていった。
と言っても、南京町において“もうひとつ食べたい”という欲求は排除しなければならない。
そう自分に言い聞かせた。
まだ小腹も満たされない想いのままに、徐々に人通りの増えつつある道を彷徨うのだった。

容器の下から熱が指先を攻める
肉ちまき

南京町を一周するうちに、頭上の放熱はさらに強まるばかりだった。
この天候で食べ歩きなどせず、中華ランチに突入するのも悪くない。
そんな心の声に従おうとしても、10時台という時刻はそれを許さない。

肉ちまきを食した「天獅堂」の前で再び足を止めた。
いっそのこと別のちまきか豚まんでも良い、という思いが一瞬の脳裡をよぎった。
だがそれはある種の妥協だ。
ここでしか出会えない得体の知れない何かを欲しているのに、ちまきか豚まんでも良いという判断それ自体、諦念から生じた妥協の産物にほかならない。
それを振り払うように歩き進めると、すぐさま気を引きつけるメニューが並んでいた。
「長城飯店」という軒を連ねる店の前に思わず足を止めた。
北京ダック、小籠包、そして湯気がたゆたう豚まん。
さらに喚起されたのは「トンポーロー」(550円)だった。
ハンバーガーかサンドイッチのような外貌をしたそれは、けだし豚角煮まんである。

長城飯店

辿々しい日本語で応対するベテラン風の女性スタッフによって手渡されると、肉ちまきを超える熱量を帯びていてすぐに食べられるものではない。
贅沢なほど分厚い豚の角煮が私の掌で小刻みに震えていて、おそらく溶けるほどの柔らかさなのだろう。
熱さで持つことさえままならないトンポーローを噛んだ。
やはり途方もない熱が口内を襲うのだが、慣れてくるほどに豚肉に染み入った甘みが熱に代わって素早く支配した。
豚の角煮から溢れ出し無音を貫く肉汁が皮に染み入る。
頭上から降り注ぐ太陽の熱、そして掌と口内を襲うトンポーローの熱。
滴り落ちようとする汗にもはや気を払うことなく、私は寡黙に頬張った。
肉ちまきを凌駕する暑熱ながら、肉ちまき同様にどこか穏やかで落ち着いた味わいで強い癖を主張することはない。
それぞれの中華に通ずる共通点はこの街の特性と不可分な関係ではなかろうか、と私はふと思った。
その地に住む人がその街を作り、その特徴を育む。
街は人の生き写しなのだ。

魅力的なメニューが並ぶ
トンポーロー

まだ11時前だった。
汗を拭いながらペットボトルの水を飲み干して、食欲の余力を確かめながら歩き続けた……

南京町から脱しJR元町駅を通り過ぎた。
摩耶山に向かって緩やかに伸びる坂道に向かうと、人の気配は薄らいだ。
路地裏のような道も容赦なく日差しを浴びているのに、どことなく陰鬱な印象だった。
けれど、私には人混みの南京町を去り、少し落ち着いた雰囲気の中で中華ランチを味わいたいという意図があった。
鮮やかな赤い看板と清潔そうな白の暖簾の対比が目に飛び込んできた。
「三宮一貫楼元町北店」は2022年にも訪れた店である。

三宮一貫楼元町北店

その時の印象の余韻に導かれて店に入ると、営業を開始したばかりの時刻だというのに、すでに数組の客の姿が見受けられた。
店内はよくある中華料理店的喧騒を放っておらず、むしろ落ち着きのある雰囲気に包まれている。
良く効いた冷房の心地よさにすぐさま体の熱も落ち着きを取り戻しつつあった。
その中で自覚したのは、肉ちまきとトンポーローに満たされつつある食欲だった。
食欲は幾分満たされつつあるのは確かだが、生ビールは別の欲求だ。
多彩な中華料理ラインナップに興味を奪われる中で、地に足を着けた食事を求めようと心の中で宣誓しながら「五目焼きそば」(1,000円)と口ずさんだ。

五目焼きそば

次々と客が店内を埋め尽くしてゆく。
そして隣に座った40代の夫婦らしき男女もビールを注文し、それを口にしたかと思うと矢継ぎ早に注文を繰り返していた。
そこに五目焼きそばが突如として現れた。
大きな皿の上の頂上で目玉焼きという意外な存在が鎮座し、その下で色とりどりの野菜や海鮮が麺を覆い尽くしていた。
箸で掻き分け、麺の存在を確かめる。
処々に焼き焦げの痕跡のある細く乾いた麺は、持ち上げると一瞬噴煙のような湯気を放っている。
その味わいもまた南京町で出会ったそれと同様、穏やかな風味で主張し過ぎることを拒んでいた。
餡に絡んだ野菜や海鮮は小気味の良い咀嚼音を響かせてはビールを促す。
すると、隣の男女のテーブルに、よだれ鶏、ピータン、餃子、黒酢酢豚、さらに追随するように海老玉子めしが置かれていった。
私は羨望の眼差しを隠すべくなるべく平静を装い、隣のテーブルのラインナップを一瞥した。
なるほど、それはもはやランチではなく中華飲みの域に入っていた。
関西弁の会話からしてもおそらく地元出身のようだ。
『しかし……』と私は心の中で誓うように自分に言い聞かせた。
『次回は大阪ではなく、神戸を軸に旅をしよう』
神戸中華の食べ歩きは、旅人にとって日中のアルコール同様、否、それ以上の非日常的体験にほかならない。
残り少なくなった五目焼きそばに酢をかけ、味の変化を楽しみながら次回の神戸を早くも夢想する自分に気づいた。

ビールがもたらす程よい酔いを打ち消すような猛烈な暑気が昼下がりの神戸を覆い尽くしていた。
来た道程を戻るように、三ノ宮駅までの道を辿った。
39度を超える熱気と軒を連ねる商店街の店先からこぼれる冷房は、もはや東南アジアを旅している気分を醸し出すのだった……。

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