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【人生最期の食事を求めて】北の大衆酒場を代表する象徴的存在。

そもそも“もっきり”とは、カップや枡に日本酒を“盛り切って”売ることから始まりとされているらしい。その語感からしても昭和の風情が漂う大衆の拠り所的な文化の開花の一例だったはずだろう。

その“もっきり”を店名に施せば、店の雰囲気も容易に想像がつくだろう。

札幌において、もっきりの名を冠した「第三モッキリセンター」はおそらく不動の大衆酒場といえる。

しかも[第三]というからには、当然第一、第二もあるだろうといった疑問を抱くのも当然である。
創業は1926年。
和暦で言えば昭和元年である。
まさに激動の昭和の始まりとともにこの店は小樽で生まれ、移転を繰り返したことで[第三]を名乗り現在の地に至ったようだ。

創成イーストエリアと称される都心部の東側は、無味乾燥としたビルやマンションがせめぎ合い、日中でひと度裏道に入ればどこか陰鬱とした闇と冷淡な空気が辺りを支配している。
次々と再開発に汚染されるその街並は、果たして札幌市民のためなのか、ゼネコンへの潤沢な資金流入のためなのかは定かではないが、スクラップ&ビルドの継承に未来はないだろう。
少子高齢化と人口減少に直面するこの国にとって、何から何まで再開発するのではなく、豊かなダウンサイジングとは何かを定義づけ、近代的再開発から脱却し、近未来的脱構築への転換を図るべき好機なのではなかろうか?
そんなことを考えながら、歩いていると暗闇の中に暖簾が静々となびいていた。
その扉を開ければ、そこは昭和世代を許容する世界が待っているのだ。
満席の懸念は常にある。
しかし、それもコロナ前のそれだ。
躊躇なく扉を開けるとまさかの満席に近い客入りで、その賑わいはどこか懐かしい。


大衆を招き入れる外観

「おひとり様ですか?」と奥の方から、マスク越しで聞きづらい声音の女性スタッフが人差し指を立てながら言い放った。
私も同じ反応をするように人指し指を立てながら、そそしさとひとりであることを告げた。
「一番奥のカウンター席にどうぞ〜」
その声に安堵するとともに、喜色を帯びた足取りで前へと進んだ。

大きなコの字型のカウンター席は、ほぼサラリーマンで埋め尽くされている。
その奥の隅は私にとっては特等席のようなものだ。
女将さんがカウンター席のほぼ中央を支配するように立っているが、いつも同じ場所に立っている店主が姿はなく、その周辺を女性スタッフたちが忙しくなく右往左往している。

通り過ぎるスタッフを捕まえて生ビールを告げた。
この席からは厨房の中の様子も断片的に窺うこともできる。
案の定、厨房内のスタッフたちはまさに料理と格闘しているように見えた。
カウンター席のみならず、テーブル席、座敷席を有しているせいで、おそらく調理にはそれなりに時間がかかるはずである。
生ビール(484円)を飲みながらメニュー表にそれとなく見流し、「しめさば」(308円)と「厚揚げ焼」(385円)、さらに「串かつ」(462円)を試みた。

すぐさま「しめさば」が届いた。
いつものようにしっかりと酢じめされたさばの身は、口の中をも洗いざらい消毒するかのように締めつける。

しっかりと締められた鯖

ふと正面を見た。
年季の入った柱に貼られているポスターのさらに上の方に、手紙のような手書きの紙が貼られていた。

『お客様各位
当店二代目父加藤一夫かねてより
入院加療中でございましたが
去る令和三年一月十三日永眠致しました
ここに故人が生前中賜りましたご厚誼を
深謝し衷心より御礼申し上げます
本来ならば早速お知らせ申しげるべき処で
ございましたが深い哀しみのうちにご通知が
遅れました事をお許しください
常日頃よりお心にかけていただきまして感謝の
念がたえません
尚誇示の意志えを引き継ぎ第三モッキリセンター
がお客様の憩いの店になる様微弱ではあり
ますが頑張ってまいります
これからも第三モッキリセンターをご愛顧
いただけます様宜しくお願い申し上げます』
※原文ママ

店主の喪失が物悲しい

店主の不在は喪失であることに初めて気づいた。
高齢とはいえ店の看板的存在であった存在の欠如は、言いたがたいほど哀しい。
私は心の中で哀悼の意を無言のうちに表しながら残りのビールを飲み干した。

それほど時間を置くことなく、「串かつ」が置かれた時と同時に、生ビールを追加した。
とんかつソースと串かつという組み合わせこそ、この店が紛れもなく昭和の大衆酒場の象徴たる所以を確かめるように、私は目を閉じながらしっかりと咀嚼する。
揚げたての衣は当然のように歯切れが良く、とんかつソースの追随によってカツの様相を変貌させる。
このボリュームを2本平らげるのは見た目よりも容易いことは、食べてみなければ理解しようがないだろうが、ともあれ平らげることは容易だった。

この店で串かつは欠かせない
揺るぎない存在感の厚揚げ焼

コの字型カウンター席の向かい側から関西弁の大きな話し声が耳に入った。
その声は抑揚が効くほどに店内に響いた。
すると、女性スタッフをからかうような下劣な言葉を投げかえていた。
その女性スタッフは笑って聞き流しているように見えたものの、とにかく客の注文への対応で忙しいことは確かだった。
八の字に下がった眉毛と目尻、薄い唇から繰り出される下劣な関西弁の数々は、執拗に女性スタッフにどうにかして絡もうという魂胆が露見していた。

私はその関西弁の男性客を無視しようと努めながら、「厚揚げ焼」を頬張ることにした。焼き焦げた香りはどこか馥郁としていて、たゆたう湯気は艶めかしい。
ハイボールを追加して厚揚げ焼をついばむように食した。
どこにでもありがちで、どこにもそうはない厚揚げ焼。
それこそハイボールとの饗宴は最良の選択だった。

食事のラストオーダーを告げる声が其処此処に点在するスタッフから聞こえてきた。
メニュー表を見ると、見慣れない締めの食事のライナップが連なる。
きっと新しい店主が決めた、この店の新たな船出を飾るささやかな変化の一つなのだろう。
だが、時間的に言って注文するには難しそうだ。
軽めで素早くできる「ハムエッグス」(363円)で締めるとしよう。
そして最後のハイボールとともに、ハムエッグスが登場した。
卵不足が懸念される中で、その姿はまさに目玉焼きを焼酎する美しい姿を型取り、醤油をかけてもその光沢は容易に弾いた。
卵という大衆の象徴性がもはや稀少な存在になる、ということを誰が想像していただろう。
私は愛おしい眼差しを卵に注ぎながら、ささやかな贅沢に浸る自分に酔っていた。
周りの席はすでに空席が目立ち始めていた。
向かい側で関西弁の男性客は、閉店間際の時刻になっても遠慮など知らないとばかりに次々と食事を注文していた。
その不快を振り払うようにハムエッグスに集中し、残りのハイボールで再度献杯して関西弁の男性客から逃れるように店を出た。

もはや庶民の支配から離れつつあるハムエッグス

辺りのビルからはすっかり灯りが消えて、どことなく不穏な暗闇に支配されていた。
飲み足りないせいだろうか?
それとも関西弁の男性客のせいだろうか?
もう1軒行くべきか模索する自分に気づいた……


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