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【人生最期の食事を求めて】出発前に喰らうにしん蕎麦の旅愁。
2023年6月26日(月)
そば処 弁菜亭(北海道札幌市JR札幌駅構内)
私は、今も昔も詩人に憧れている。
大学を卒業する前に提出しなければならない志望する職種、
業界、企業名にも「詩人」または「吟遊詩人」と記入し、
就職課のベテラン女性スタッフから呆れられた記憶が今でも鮮明に蘇る。
私に詩を魂を注ぎ込んだのは、
幼い頃に本棚で見つけた萩原朔太郎詩集の中の珠玉の一片「旅上」であった。
“ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。”
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この詩に魅了され、
人生自体も珠玉の詩であり、旅だと気づきてから、
すでに40年以上過ぎていた。
自由を求め、挫折し、就職という現実を受け入れ、
まともに仕事をし過ぎて病気をし、
思い切って早期退職した。
所有という概念が欠如している私にとって、
萩原朔太郎の詩を想いながら旅に出ることは、
第二の人生の序章を迎えたといっても過言ではない。
背広を捨て、ワイシャツを捨て、ネクタイを捨て、
思うがままに汽車に乗り込もう。
札幌駅構内の片隅に立喰い蕎麦と出会った。
立喰い蕎麦の正面に「にしん蕎麦」を見出す時、
私は自らの中に空腹を感じた。
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![](https://assets.st-note.com/img/1691964202708-jz0x9T5zFX.jpg?width=800)
6月の午前の日ざかりに差し掛かる時、
私は券売機の前に立ち、
挑むように「にしん蕎麦」(600円)のボタンを押した。
熱気が立ち込める中で、器はつつがなく置かれた。
若緑色した葱と茶褐色の汁を覆う身欠きにしんの光沢は、
大衆に愛された面影を宿している。
京都で食したのと違って札幌のそれは、
甘露煮が紡ぐ北国ならではの濃厚な味わいが、
空っぽの体内を揺り動かすように駆け抜ける。
旅上に立つ前の立喰い蕎麦は、なんと憂いのある食事であろう。
新たな旅への想いに耽る暇はない。
私は白い台に立ち尽くし、柔和な麺を小気味よく啜っては、
身欠きにしんを想いのままに噛み砕く。
空っぽの器を戻し、そそくさと汽車に飛び乗る。
ビルが過ぎ去る窓辺に初夏の青空が広がった時、
私は新たな旅上を見つけた……
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