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【人生最期の食事を求めて】唐突に出逢った金沢立喰いそばの熟達。

2024年4月21日(日)
加賀 白山そば(石川県金沢市木ノ新保町)

物足りない朝食後、金沢を去る束の間のひとときを散策することにした。

おもてなしドームの地下に続く階段を降りてみる。
そこはひと気がなく仄暗い。
それに無駄に広いというべきか、余白が有り余るほどの空間が広がっている。
きっと何かのイベント時に活用されているのだろう。

その奥の窓辺には金沢駅全体の模型の鼓門の模型が展示され、さらにその奥のスペースには金沢市民らしき人々がベンチに腰をおろしていた。
その反対側では、穏やかな水辺と地上のおもてなしドームからこぼれ落ちる外光が独特の沈着を生み出していた。
そこからピアノの音楽が優しい音色を響かせていた。
それはスピーカーからではなく、水辺の奥に置かれたピアノ生演奏だった。
それにしても、その奏者は素人離れの技巧を駆使していて、私は思わず足を止めてその音色に聞き入ってしまった。
それはまさしくショパンの「ノクターン第2番変ホ長調」だった。
ショパンの夜想曲の中でも最も知名度の高いこの曲は、水辺と外光と相まって甘美なほどの旋律を奏でている。
なんと落ち着く空間だろう。
私は、この空間でショパンの音色を独占していることに優越感を覚えた。
しかしながら、この場にずっと親しんでしまうわけにはいかず、振り払うように後にした。

石川県立音楽堂

地上に再び上がり周辺を彷徨うと、石川県立音楽堂に出くわした。
その巨大な建築物には、パイプオルガンや邦楽ホールも備えていて、しかも日本を代表する指揮者岩城宏之氏が設立に携わったオーケストラ・アンサンブル金沢の本拠地だという。
岩城宏之氏が生前指揮したベートーヴェンの代表作を振り返りながら館内をそぞろ歩き、そして再び金沢駅に戻った。

岩城宏之(1932〜2006)

10時30分頃だった。
真新しい商業施設「百番街Rinto」は幾分ながら客の気配が増えつつあった。
その中に足を踏み入ると、おみやげショップの連なりの中に突如として「加賀白山そば」の文字が驚かすように出現した。
驚かすとあえて言ったのは、その周辺には飲食店らしきものは一切の痕跡もないのに、その店だけが際立っていたからである。
再び朝食の物足りなさが私の中で影を落とした。
暖簾で遮られた店内の様子は腰高ほどの部分が確認できた。
私は時計を覗き込んだ。
いささか時間を気にしながらも店内に入ることにした。

加賀 白山そば

高齢の気さくそうな女性スタッフが歯切れの良い声音で出迎えた。
メニューが多様過ぎる中で、この店のおすすめの逸品と掲げられている「白えびかきあげそば」(620円)を告げると、私の注文を予測していたようにすぐさま目の前に置かれたことに内心驚きながら、背後を振り返った。
細長いスペースは立食と座食のスタイルに分離されている。
私はすぐさま立食スペースに向かった。

白えびかきあげそば(620円)

俯瞰してそばを眺めた。
それはどこにでもあるそばの風景といって良い。
が、スープを啜ると奥行のある風味だというのに濃厚さを感じさせない。
そこに白えびの香りが便乗し、立ち食いそばというレベルを感じさせない深みを宿すのだ。
麺は野太いストレートながら柔和で、滞ることなく喉を滑り落ちてゆく。
かき揚げに箸を移した。
白えびの群れがかき揚げからほぐれるように口内に溢れた。
その風味はスープから運ばれてきたそれよりも当然にして強く迫って来る。
不勉強ゆえに加賀の蕎麦には疎いのだが、だからこそ立喰いそばというスタイルでこのそばに出逢えたことは少なからず衝撃である。
やや急ぎ気味にそばをすするのは本心ではないが、完食は必至だった。

店を出ると、行き交う人の交錯が幾分増えたような気がした。
私は岩城宏之指揮のベートーヴェン「交響曲第6番『田園』」を心の中で再生させながら、その交錯の中を悠然としなやかに交わすように金沢を去るのだった。……


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