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【人生最期の食事を求めて】歴史と伝統が醸し出す穏やかなちゃんぽんの風合い。

2024年3月21日(木)
中華大八駅前店(長崎県長崎市大黒町)

【人生最期の食事を求めて】歴史と伝統が醸し出す穏やかなちゃんぽんの風合い。

長崎港に広がる朝の爽快な空と長崎湾の凪いだ海の境界線、それを遮る稲佐山の青々とした輪郭を朝から漠たる面持ちで眺め続けた。
時折、猛々しい雲の塊が湧き立ったかと思うと辺りに陰影を投じていた。
とはいえ、そこに足早に寄り添う春を感じた。
だからこそ、と私は奮い立った。
過去に観た長崎の歴史に再び触れるという試みの前に、まずは腹ごしらえを思い立った。

長崎港

長崎駅前の古びた繁華街を歩いた。
11時過ぎとはいえ、街はまだ眠っているかのように静かだった。
そこに、ひとりの男性が立ち尽くしていた。
その様子を窺うと赤い暖簾と看板が雑居ビルの隙間から溢れる陽光を浴びて際立っている。
看板には中華とあるが、暖簾には長崎ちゃんぽんとある。
迷うことなく店の前に向かい、今どき珍しいショーケースに並ぶメニューを確かめ、ひとりの男性客の背後に回ることにした。

中華大八駅前店

時刻は11時35分だった。
この店の開店時間は11時30分だが、すでに店内は満席で店内の入口に置かれた椅子にも待ち客の影が映っている。
なかなか前に進まない。
だからといって今さら他の店を探すという気にもなれない。
しかも、私の背後にはすでに多くの客が粛然と列を成していることを確認すると、なおさら離脱などあり得ないという心境に導かれた。

食べ終えた客が一人また一人出てゆく度毎に、列は牛歩の如く動きた。
ようやく店内の待ち席に座り、中の様子を観察すると中華料理店とレストランが混淆したような風情の中で、ビールを飲みながらちゃんぽんを食する客や炒飯をシェアしあいながらちゃんぽんを食する二人組の姿が確認できた。

そしてまた次々と食べ終えた客が店を背にする。
「お客様、奥のカウンター席にどうぞ」
と店内を忙しなく動き回る女性スタッフに導かれた。

事前に「ちゃんぽん」(800円)と「高菜めし」(230円)を注文したことからすぐに出てくるだろうと思いきや、想像以上に時間を要していた。
カウンターのすぐ前にある多彩なおでんの具が盛られた鍋が、ちゃんぽんの登場の待ち遠しさを一層喚起していた。
『ビールとおでんに興じる夜の長崎も良いものだ』
と今夜の食事を妄想していると、不意にちゃんぽんと高菜めしが現れた。

ちゃんぽん(800円) 高菜めし(230円)

意想外にシンプルないでたちのちゃんぽんに、大量の高菜の盛られたご飯というコントラストを確認し、ちゃんぽんに箸を投じた。
箸先から麺の重要感を伝わってくる。
野菜の中から出現したダイナミックなうねりをかたどるストレート麺を、惜しげもなく啜り上げた。
するとどうであろう。
その味わいは至って恬淡としていて、長崎以外で食するほどの強いニンニクや調味料の破壊力はなく、優しく穏やかな風合いなのだ。
他方、高菜めしと言えば、白米に絡む高菜が絶妙な衝撃でご飯を呼び込み、さらにちゃんぽんのスープまでをも呼び込む。
麺自体の存在感と食べ応えは申し分ないのだが、優美なほどの味付けがどことなく押さえ込んでいる、と言えようか?

私は食に集中しようと試みながらも、つい考えた。
もしもちゃんぽんだけならば物足りなさを感じていたのではなかろうか、と。
長崎県民が愛するそれと全国に知れ渡るそれとの味覚的懸隔は、やはり県民性やその土地土地で培われてきた風土から生ずる差異なのではないだろうか?
だからこそ、この地のちゃんぽんはこの地に長く愛され続けるために、強烈なインパクトや濃厚な味付けを排除してきたのではないのだろうか?

いざ食べ進めていると、それなりのボリュームを感じた。
物足りないよりもましだ、と私は自分に言い聞かせながら会計を済ませて店を出た。
店の前は私が訪れた時よりも行列を長く細く伸ばしていた。
奇妙な優越感が飛来するのを感じながら、気をあらためて電車に乗り込み、長崎の深く重い歴史の只中に再び自己を埋没させようと心に決めるのだった。……


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