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触れていたのは僕ではない誰かの指先

誰に読まれるとも思わず、ただ思うままに書いていく。

きっと読み返しもせず、書き直すこともない。誤字も脱字もそのままだ。

いつからだろう、僕らが毎日画面越しに誰かと対話をするのが当たり前になったのは。そしてそれが、対話のようで対話でないものであることに気づかなくなったのは。

四十もすぎたおっさんであるから、生まれたときにインターネットなんてものはなかった。小学生の頃、パソコンが自宅にある家庭なんてほんの一握りだった。はじめて手にしたのはワープロだった。

ワープロを手にした時は楽しくて仕方なかった。富士通のOASYSだった。独特のキーボード配列が体に仕込みんで、その後、パソコンを使うようになってからはしばらく苦労した。

詩や小説を書き、脚本やアイデアを書いた。まだWWWが存在する前だったと思う。だから画面越しに対話する相手は、常に自分だった。

書けば誰かがいいね!を押してくれることはない。それでよかったのだと思う。きっと自己満足だ。それでよかったのだと思う。自分が満足していたのだから。

いつから自分を満足させられない文章を書くようになったのだろう。いつから見えない読み手ばかりを想像するようになったのだろう。一体、何に思いを馳せているのだろう。

心地よく言葉を紡いでいた僕の指先は、気づけば誰かが押してくれる指先に一生懸命ふれようとばかり思っていたのかもしれない。いつかみたスピルバーグの映画のワンシーンのように。

そんなことを考えながら、ふと自分と対話をしたくなり、こうして文章を紡いでいる。たとえ打ち間違いがあったとして、それでよい。美しく整えた文章も素敵だ。しかし、山奥の蕎麦屋が打った無骨な蕎麦は、それを凌駕する気品がある。いつか、そんな文章を紡ぎ出したい。

創作に関わらず人間であるが、僕には個性がない。個性がないことで、いろいろな仕事に携われるメリットもあるが、正直なところ自分に魅力を感じないのは、生きづらさはある。一度は棄てた人生であるから、有名になりたいとも、誰かに影響を与えるような存在になりたいとも思わないが、味のないガムを噛んでいるようで苦痛だ。

この文章の行末も、答えもない。才能あふれる書き手は世の中に無数いる。そして自分の才能の無さに苦悩している人はその数百倍いる。自分はどうだろう。才能など元から眼中にない。もし才能があったほうが苦悩したかもしれない。才能がないからまだ苦しくない。ただ、この味のない、色のない世界をもう少し楽に楽しめる方法を知りたい。そんな毎日だ。

明日はもう死んでいるかもしれない。それでもよい。次はもう少し、濃い味に煮付けた魚になろう。

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