教育とイデオロギーについて

イデオロギーを教育してはならぬ、と思っている。それは教育というより「教化」であり、過激な言い方をすれば「洗脳」だからだ。教えるべきはファクトであり、主義主張ではない。

カール・マルクスは「資本論」を書き、レーニンがロシア革命を主導した、はファクトの伝授であろうが、偉大なるマルクスが、偉大なるレーニンが、となればイデオロギー教育となろう。

とはいえ、教育からイデオロギーを完全に排除するのは難しいし、限りなく不可能に近い。そもそも医学は目的を持った科学なので、そこからイデオロギーを排除するのは無理だ。

それでも、医学生や研修医を「教化」しつづけることで、彼らの一種の奴隷根性が醸造され、不要な過労死や自殺まで生じ、現在の「働き方改革」を余儀なくされたのもまた事実だ。その「教化」に加担し続けてきた事実は認めねばならない。汗顔の至りではあるが、反省を込めて、自分の有責性を認識しつつ、この文を書いている。

教育と教化。イデオロギーを完全に廃するのは無理にしても、ものごとは程度問題だ。過度に教化性を強調した教育はあやうい。学習者が自ら考えて学ぶのが大切なわけで。イデオロギーは可能な限り排除した方が良い、一般的に。

性教育もイデオロギー化しやすい。そもそも「性教育はけしからん」と言った瞬間にイデオロギーだ(分かってるのかな)。ただ、なんでもかんでもやればよいというものではない。「教えすぎ」というか「自分の思い」を入れすぎた性教育はコインの裏表でやばい「教化」である。

性教育にジェンダー教育は不可欠だが、ジェンダーもイデオロギー化しやすいので用心が必要だ。「女の子はピンクの服を着るべきだ」はイデオロギーが強いし、「女の子はピンクの服を着るべきではない」もイデオロギーが強い。「女の子はどんな色の服を着てもよい」は一見穏当だが実はイデオロギーが込められたメッセージだ。「女の子の服の色は何を根拠に決めるべきか」一緒に考えるのが最適解だとぼくは思うが、賛同者は多くないかもしれない。賛同者の多寡が妥当性を担保するわけでもないけれども。

教育者が自分のイデオロギーを廃して教えることは難しい。しかし、自分のイデオロギー性に自覚的になることはできるし、自制することも可能だ。そして自制は必要だ。

昨晩、夢に見たことをまとめたらこうなった。

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