感染症医になるということ

日本では「感染症医」というジャンルが実質存在してこなかったのだが、21世紀になってこれがあれやこれやの事情でようやく診療科として「実質的に」創出され、後期研修医が指導医と育って成長のサイクルが生まれだした。

海外では感染症医の歴史はずっと長く、特にアメリカのそれが有名だ。一般的には「Dr.ハウス(ヒュー・ローリイ)」がその存在を有名にしたと言えるだろう。

そのアメリカでも感染症医になりたいという人たちが激減している。最大の理由は「給料が低い」というもので、テクニックを駆使する外科系や循環器や消化器、日本で「マイナー」と呼ばれる診療科のほうが人気なのだ。しかし、理由はそれだけではない。

他の診療科に比べ、感染症屋は対峙せねばならないセクションが多すぎるのだ。相手は微生物だけではない。患者がそうだし、患者の家族やパートナーがそうだ。他の診療科の医者、ナースなどのコメディカル、果ては病院長や理事長、保健所などの公衆衛生部門、衛生研などの研究検査部門、自治体や政治家、官僚。ついには社会全体まで相手にせねばならなくなり、普通に患者を診て診療したいと願う多くの医者たちを怯ませるのだ。怯む気持ちは、とてもよく分かる。

私の個人的な見解を申すならば、感染症屋は決してスペシャリストではない。私の造語ではそれは「ジェネシャリスト」ということになるのだが、すべての医療者がジェネシャリストたるべしと信じている私にしてみれば、それは感染症屋のレゾンデートルとはなりえない。

むしろ、「スーパージェネラリスト」というのが、感染症屋を正確に描写していると思う。

外来診療、入院診療(外科系、内科系問わず)、ICUケア、在宅に精神科病院に老健に、バイオに、CAR-T、移植、VAD、都会に田舎に諸外国。あらゆるセッティングで感染症屋はポリバレントな仕事を要求される。実際にできているかどうかは別として、できるべきである。これほど広範なセッティングで仕事をする「ジェネラリスト」がいったいどのくらいいるだろうか。そこには微生物学があり、薬理学があり、解剖学や生理学、病理学や生化学がある。歴史学、人類学、言語学、心理学、経済学、政治学すらある。もちろん、哲学がある(「私の生きざま」という意味での「哲学」では決してない)。「外」にいる人は、誰もそんなことは思っていないだろうけれども、これこそが本当の感染症屋なのである。

「何かについてすべてを、すべてについて何かを」知っているのが知の理想型であるとすれば、感染症屋はまさにこれを具現化した(したい)ものなのだ。私はCAR-Tを使えないし、VADを装着管理もできないが、こうした患者さんとはつねに関わっていることができる。特に「渡航医学」がアッドオンされた感染症屋は、そのジェネラルっぷりは極めて徹底的だ。渡航医学とHIV診療は、、、現実にはHIV診療がまったくの「専門家の医療」になっている現実からは目を背け、あくまで理想論を語っているのだが、、、、、究極のプライマリケアだと今も私は信じているし、プライマリ・ケアをやりたい若手には、両者を体験することを強く推奨している。

もちろん、スーパージェネラリストは孤独である。それはいつも(ほぼ)全てにコミットしているのに、何者にも属していないのだから。属するべき集団にいるほうが、人は安心できるのである。しかし、そうした集団たちのためにハードボイルドなセンチネルは絶対に必要なのだ。そうある矜持(やせがまん)をよしとする人は、それでもいるはずなのだ。

ドイツ医学を源とする日本では、そもそも感染症医は絶滅種だったのだ。絶滅種がようやく認知をえて、コロナでそのアイデンティティが揺らいでいる。ただそれだけの話なのだ。少数派としての本分を思い出し、マイノリティとして清く正しく、そして貧しく生きていけばいいだけの話なのだ。分を越えて、欲をかくとろくなことがないのである。

スマホが普及した現在、「虫の目」たる知の世界は簡単に飽和される。スマホに「鳥の目」は持てない。本文は万人向けに書いたものではなく、to the happy fewに宛てたものだが、それでも誰かの目に止まることを願っている。


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