AIの時代に英語力は不要か

オーセンティックな教科書を読むには知性だけでなく、体力というか、胆力も必要とする。ほとんどのオーセンティックな教科書は英語でできているから、英語力は必須である。
とはいえ、文学作品を読むような超高等レベルの英語力は必要ない。医学書には一つの文章にダブルミーニングをつけたり、伏線をはったりすることはない。
アガサ・クリスティやエラリー・クイーンの非常に質の高いミステリーを邦訳で読むと、「ああ、これを原書で読んだら本当はもっと面白いんだろうな」と思うのだが、私の英語力では、実は原書で読んでもその面白さはアプリシエイトできない。短編の比較的シンプルなミステリーであれば十分に楽しめるのだが。例えばクリスティの「五匹の子豚」はミステリー史上に輝く超傑作だが、日本語で読むとその凄さの3割位は削り取られているように思う。かといって英語力のない読者が原書に挑んでも、さらに魅力は理解できない。
ハリソンやセシルも最初は敷居が高いが、読み慣れてくるとむしろ定型的でシンプルな描写ばかりなのに拍子抜けするはずだ。それはそうで、医学書に読者の解釈が複数存在しうる、多義性などがあってはたまったものではないからだ。誰が読んでも感染性心内膜炎の診断法は同じであり、治療法も同じである。多義性が生じたとすれば単に読み手の読解力が足りないだけなのである。
日本語であれ、英語であれ、長い文章に読み慣れていない人は、まずは短い文章を読み、これを少しずつ伸ばしていくのがよい。泳げない人が少しずつ距離を伸ばしていくように。最初は1文読めれば十分だ。これを1パラグラフまで伸ばし、1ページに伸ばし、1セクションに伸ばしていく。最初はすぐに苦しくなったはずの読書が、だんだん心地よく、苦痛なく読めるようになってくるはずだ。
今は電子的な翻訳技術が進歩しているから、英語力など必要ないと感じている人もいるかも知れない。確かに、以前に比べると機械の翻訳の質は飛躍的に向上した。Google Chromeなどを使えば、ネット上の論文は瞬時に日本語に転じるし、その内容も概ね間違っていない。AIによる翻訳能力はかつてないほど、高い。私も現在、翻訳をするときはまずはDeepLに下訳をさせて、本文と突き合わせて推敲するスタイルを取っている。こちらのほうが入力の手間が省けて圧倒的に速く訳せるからだ。
とはいえ、やはり機械の翻訳は間違えることもある。その間違いを察知するためにも英語力は必要なのだ。英語力があれば、違和感のある日本語訳は「これ、誤訳じゃないかな」と簡単に見出すことができる。医学生がこれをしないので、AIに翻訳させたそのまんまで意味不明なレポートを提出してくることがある。
英語のテキストを英語のままで読む利点は多々ある。一つには、英語の文章を検索する労を惜しまなくなる。いくらネットで翻訳可能であっても、多くの医学生や医者は翻訳すら「面倒くさい」と思うようになる。よって日本語の文献しか探さなくなる。この時点で、すでに世界から背を向け、狭い世界に閉じ困ってしまう。
ネット上で使われている情報は、特に自然科学領域の質の高い情報は、ほとんど英語でできている。そういう世界から隔絶され、我流に走り、「うちの医局ではこうなってる」と井の中の蛙になってしまっている医者、医者集団は多い。あるレベルの英語力を維持していないと、英語の情報にアクセスする気力すら失われ、そうやってどんどん情報弱者に堕ちてしまうのである。
スポーツの世界であれ、音楽の世界であれ、トレーニングを怠った人物が高いレベルを維持できるなんて幻想はありえない。世界のスーパートップレベルの人ですら、、、人だからこそ、、、他人よりも厳しいトレーニングを続けて質の維持、向上に努めている。いわんや、日本国内で毎年9000人以上が合格できて資格を得る「凡人集団」の医者であれば、なおのことだ。かつての栄光にすがって努力を怠っていれば、中学生レベルの英語力すら維持できないのである。
英語力があれば、英語の情報にアクセスできる。アクセスできれば、そのメリットにも気づき、さらにアクセスを惜しまなくなる。好循環だ。英語力がないと、英語情報へのアクセスすら面倒くさい。キーワードを英語に直すだけでも一苦労だ。アクセスが面倒くさいから、アクセスしない。アクセスしないから、ますます英語力は落ちる。悪循環だ。
過去の栄光など、糞の役にも立たない。というか、世界規模で見たら、そんなものは栄光ですら、ない。下らないプライドにすがっている隙があったら、今の自分を伸ばす努力と工夫をするべきだ。
多くの社会では「今の自分」しか評価の基準がないのである。「子どものときは神童と呼ばれてました」では、プロの世界で活躍どころか、試合に出ることすらできないのだ。医療・医学の世界も(実は)同様である。過去の栄光は現在の自分を測る基準にはならないのだ。なるべきではないのだ。

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