臨床医学の教科書はもう不要なのか

医学論文へのアクセスが劇的に改善したのはインターネット、およびPubMedのおかげである。手軽な論文検索、論文閲覧が可能になった21世紀初頭、ガツガツ論文読んで勉強するタイプの研修医あたりから、「教科書は時代遅れ。情報が5年くらい遅れていることもある。もう、教科書は読む必要はない」と豪語する人がチラホラと出現するようになった。
 
しかし、私はこの見解に与しない。
 
もちろん、論文検索、論文吟味のメリットや重要性を軽視しているわけではない。インターネットの時代に、テクノロジーを活用することがわるいと思っているわけでもない。なんとならば、文献管理アプリの「Zotero」を使い倒して、活用法の本を書いたくらいである。

岩田健太郎. 手軽で便利な文献整理 Zoteroのすすめ. 中外医学社, 2024.  https://amzn.asia/d/cuahrlO 
 
しかし、論文を気軽に検索、閲覧できるようになったから「教科書はもう不要」というのが短見なのである。
教科書は時間の吟味を生き延びた、賢者のwisdomがまとめられている。最新情報である論文とは、知性のレイヤーが異なる場所にあるのだ。
医学生や研修医が患者を担当した場合、まずは当該患者が持っている疾患の項目を、オーセンティックな教科書で勉強することをおすすめしている。疾患の全体像を把握するのに最適だ。同様に、知らない菌や知らない抗菌薬に遭遇した場合でも、まずはちゃんとした教科書を参照するのが望ましい。最近は、こういう場合に「まずはネットで検索」する人が少なくないが、海のものとも山のものともわからない情報を「ネットで拾った」と分かったつもりになってしまうのは、非常に危うい。
教科書を読むメリットは、まず医学生や研修医が「そもそも疾患について学ぶというのは、どういうことをいうのか」を理解できることにある。そこには疾患のオーバービューがあり、疫学情報があり、臨床症状や徴候、検査値の異常があり、診断法があり、治療法があり、ときに予防法などがまとめられている。「ここまで勉強すれば、とりあえずはよし」というワンセットの知識が得られるのである。
「ネットで拾った」情報にここまでの網羅性があるかどうかは、運次第である。患者さん向けの情報で専門性を欠く場合もあるし、情報が古かったり間違っていることもある。ネット上の情報は新しいとは限らず、更新されないことがわりとあるのである。最悪な場合は疑似科学や陰謀論に染まった真っ赤なデタラメな場合すらある。
ちゃんとした教科書では、臨床所見の濃淡が理解できるのもよい。頻出な症状はこれ、めったにない症状はどれ、と頻度の高低の区別がある。特異度の高い、低いもある。確定診断の方法も示されている。
定番の治療法が示されているのもよい。確かに、最新の論文で見出された新規の治療法は載っていない。しかし、新規の治療法が「確立させた標準治療」に昇華するには、やはり時間の審判を経ねばならないのだ。多くの臨床試験の結果は追試で否定される。理想的環境でのランダム化比較試験の結果は、リアルワールドの非理想的環境では絵に描いた餅だったりする。思わぬ副作用が後に発覚することもある。だから、「今週NEJMに載った」新しい臨床試験の結果を目の前の患者にいきなり使うのは、一般論としてはよくない。「他に代替手段がない場合」を除き、新規性の高い治療法に私が飛びつくことがないのは、そのためだ。
ちゃんとした教科書は知識のフレームワークを作り、それが新規の論文を読むリテラシーをも醸造する。教科書は論文を読むための前提なのだ。だから、教科書を読むことを端折ってはならない。教科書を読まねば、論文の結果における「結果のキモ」にも気づかぬ可能性すらある。
これだけ口を酸っぱくして教科書の有用性、重要性を説いても、それでも学生や研修医は教科書を読まない。ハリソンのようなちゃんとした教科書を読まない。試験勉強のためのアンチョコ本は読んでも、オーセンティックな教科書は読もうとしない。
しかし、アンチョコ本は「典型的な患者の典型的な診療」のことしか書いていない。イレギュラーなケースは国家試験では不適切問題になるからだ。しかし、そういうイレギュラーなケースこそが臨床現場では多数派なのだ。平均点が77点の試験で、本当に77点をとる人はむしろ少数派なのだ。試験勉強のための「タイパ」としてアンチョコ本を活用することを渡しは否定しないが、生身の患者を扱う道具としては、これを断固として否定したいのはそのためだ。

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