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#1 真夜中に聞こえてきた「あの声」…「負け組」の日常を描いた群像劇

AV・風俗専門のスカウトマン、「ノー」を言えないカラオケボックス店員、デブ専アダルト女優……。大都会・東京を舞台に「負け組」たち6人の日常をリレー形式で活写する、直木賞作家・奥田英朗さんの『ララピポ』。「下流文学」の白眉として評判となり、映画化もされました。第1話の主人公は、対人恐怖症のフリーライター。その冒頭をお楽しみください。

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その夜も三十二歳のフリーライター杉山博はパソコンに向かい、雑誌の原稿を書いていた。原稿といっても署名原稿でも取材原稿でもなく、資料の要約である。博は若者向け情報誌の新製品紹介ページを受け持っていた。編集部からプレス・リリースとレイアウトが郵送されてきて、その字数を埋めて送り返す。月に二回、そんなやり取りをする。毎度同じ作業だから打ち合わせの必要もない。担当編集者とはもう二年以上、顔を合わせていなかった。

原稿料はページあたり一万二千円で、一号で六ページを書く。月に二回発行される雑誌なので合計十二ページということになり、原稿料は十四万四千円。それが博の月収のすべてだった。たまに単発の仕事も依頼されるのだが、取材を必要とするものはすべて断っていた。断る、というより逃げまわっていると言った方が正確だろう。

三十を過ぎて、人と会うのに恐怖を覚えるようになった。

初対面の人間は平気なのに、昔からの友人知人に会うとなると途端に緊張するのだ。

原因はわからなかった。考えれば思いあたるふしはあるのだろうが、考えたくないので放置することにした。

この一年で人に会ったのは数回だ。したがって口を利く機会はめったにない。蕎麦屋で勘定の段に「ごちそうさま」と言うぐらいだ。普通ではないとわかっているものの、自分ではどうすることもできない。

一人でいることにすっかり慣れた。東京の真ん中に暮らしながら、実際は無人島で生活しているのと大差がない。

博は資料を斜め読みし、必要なデータを文章でつないでいく。駆けだしのライターがやるような単調で退屈な仕事だ。以前は「ほかの人間にやらせなよ」と不平をたれていたが、今では切られたらどうしようと恐れている。この仕事がなくなったらたちまち生活は困窮する。1LDKのアパートの家賃が十万円。実のところとっくに破綻しかけているのだ。博は蓄えを崩しながらなんとか生きている。

キーボードを打つ手を休め、たばこに火を点けた。経済的理由から何度もやめようと思ったが、こればかりはやめられない。そのかわりに無駄な消費は避けている。洋服などいつから買っていないことやら。

窓の外に車のエンジン音が聞こえた。先週、真上の部屋に越してきた住人が帰ってきたのだ。博の部屋は一階で、すぐ裏は駐車場になっている。マフラーを改造したスカイラインがその住人の愛車だ。一度顔を見たことがあるが、ホストを思わせる派手な身なりの若い男だった。

再びパソコンに向かい、携帯電話の新機種が出たという記事に取りかかる。携帯電話を持ってない博にはまるでチンプンカンプンだが、資料を要約すればいいだけなので問題はなかった。この要領で化粧品の記事もオートバイの記事も書く。

世の中は進んでいるんだな。新製品の資料を読みながら毎回のように思うことだ。最近では携帯電話でもインターネットができたりするそうだが、博にとってはまるで別世界の出来事である。たぶん今の状態ではどこにも就職などできないだろう。まるで時代に取り残された老人の心境だ。

上の部屋でドンドンという足音がした。フローリングの床なので音が遠慮なく下に響いてくる。入居したときは新築だったが一晩でこのアパートが欠陥住宅であることがわかった。夜になって周囲が静かになると、トイレの水を流す音まで聞こえるのだ。

よほど不動産屋に文句を言ってやろうと思ったが、なんとなく機を逸してしまった。そのままずるずると六年も住んでいる。

その間に上の部屋の住人は二回替わった。最初は若いサラリーマン。この男はほとんど部屋におらず、一年ほどで出ていった。次は正体不明の中年女。長らく住んでいたが、人が訪れたことは一度もなく、息を殺すようにひっそりと暮らしていた。そして最新の住人が先週越してきたホスト風だ。前の女が静かだったので余計に物音が耳に障る。戸を乱暴に閉めるものだから、そのつど大きな音が響くのだ。

今日は足音がひとつではなかった。早速女でも連れ込んでいるのだろうか。

ため息をつき、仕事に集中することにした。締め切りは明日だ。カタカタとパソコンのキーを打っていく。《山下電器より最新のSDメモリーカード対応のPCが発売された……》。本当に馬鹿みたいな仕事だ。かつては海外取材などもこなしたことを考えると格落ちもいいところだ。

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また上の部屋からドンドンという足音が聞こえた。博は一人顔をしかめ、舌打ちする。文句を言いに行こうかとしばし思案した。フローリングは下に響くのでもう少しお静かに、と。いや、やめとくか。互いに気まずくなるし、喧嘩にでもなったら余計に住みにくくなる。博は妙に気が小さいところがあった。不動産屋に抗議しなかったのも、結局は勇気がなかったからだ。

時計に目をやると午前一時だった。残りの分量を見る。あと三、四時間で完了しそうだった。終わったら原稿をメールで送信して、昼まで寝て資料を郵便で送り返して……。これが終われば当分はすることがない。たぶん自分は図書館で借りた本でも読んで過ごすのだろう。

しばらくして二階が静かになった。やれやれと思い、原稿を書き続ける。《高音質CDヘッドユニット人気の火付け役となったのがこのYS2シリーズ……》。何のことだかわからないので、じりじりとストレスが溜まっていく。たった六ページの原稿に三日もかかってしまうのはそのせいだ。達成感もなければ充実感もない。肉体労働の方が汗をかくぶん、きっと爽快なはずだ。

何かの音がした。キーを打つ手を休める。

……気のせいか。再び指を動かす。

また音がした。今度はラジカセのボリュームを絞り、耳を澄ませた。

なにやらコトコトと木をたたくような音が鳴っている。それもかすかな音だ。

どこから聞こえてくるのかと部屋を見まわした。今のところ見当もつかない。

その音は一定のリズムを刻んでいた。

地震か? けれど蛍光灯の紐はまるで揺れていない。博は椅子から立ちあがり、寝室へと歩いていった。

すると音がやや鮮明になったような気がした。どうやらこの部屋で鳴っているようだ。

ベッドに腰を下ろし、さらに耳を澄ませた。聴覚に神経を集中する。

上から聞こえるのがわかった。

天井を見る。そうだ、確かに上から聞こえる。たたくというよりは木が軋んでいる音だろうか。瞬間、博はひらめいた。上の部屋で、セックスが行われているのではないだろうか。ベッドが揺れ、その軋みが床に伝わっているのではなかろうか。

博の股間がじんわりと熱を持った。心臓の鼓動がやや速くなる。

博は確かめるようにベッドの上に立ち、耳を天井に傾けた。

軋み音以外は何も聞こえてこない。

今度はベッド横の窓を五センチほどそろりと開けた。角部屋なので二階にも同じ位置に窓があった。そこから女のあえぎ声が聞こえてこないかと思ったのだ。

耳を外に向け、全神経を耳に集中する。何も聞こえてはこなかった。

早合点だったかな。だとしたらとんだ間抜けな話だ。少し冷静になる。

これまで上の部屋からこのような音が聞こえることはなかった。前の住人は地味な中年女だったから仕方がないとしても、その前は若い男だった。一度ぐらいは女を連れ込んでいてもおかしくはない。

いや、でも布団ならこのような音は聞こえないか。それにカーペットを敷いていても音はしないはずだ。やはりこれはあのときの音なのだろうか。

そのとき外の暗闇に「あ」という声が飛んだ。

博は色めき立った。今のは女の声ではなかったか。

あわてて窓の隙間に耳を寄せる。ベッドの上に膝をつき、目を閉じた。

「あ……あ……」

間違いない。女のあえぎ声だ。

博は興奮した。股間で性器がみるみる硬くなっていく。思わずズボンのボタンを外し、ファスナーを下げた。パンツの上から性器を握る。

さらに集中すると、遠くからスクーターの排気音が近づいてきた。

うるせえこの野郎。腹の中で毒づいた。歯軋りしながらスクーターが通り過ぎるのを待つ。やがてまた静寂が訪れた。

けれど女のあえぎ声はそれっきり聞こえなくなった。天井に注意を向けるとコトコトという床の軋み音もやんでいる。

終わったのか。くそう、いいところだったのに。肩の力が抜けた。

博はそのままベッドに寝そべった。未練がましく耳を澄ませたが、上の部屋からは何も聞こえてこなかった。

右手で性器を弄んだ。少ししぼんだものの、まだ熱を持っていた。

上の階もたぶん部屋のレイアウトは同じなのだろう。窓際にベッドを置き、そこで寝ているのだ。

ふと天井を見る。ほんの二メートルほど上の、床一枚隔てたところで、あのホスト風は女を抱いたのか。そしてたぶん今現在、二人は裸のままで抱き合っている――。

それを思うとまた博の性器は硬度を増した。


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