あの日_朱音は

その日、朱音は空を飛んだ 4┃武田綾乃

昼休みを告げるチャイムが鳴り、生徒たちは一斉に昼食を取り出した。スポーツバッグの底に沈んだ弁当箱に目もくれず、祐介は足早に教室を去る。目的地は、二年二組。夏川莉苑のクラスであり、そして川崎朱音がいたクラスでもある。

祐介のいる三組と二組の間には、距離なんてほとんどない。だけど、祐介は二組のことをほとんど知らない。知り合いのいない教室に、興味を持つことなんてなかったから。
 
二組の扉は開いていた。壁に手を掛け、祐介は中を覗き込む。

「今週の日曜は部活なんだよね」

「うっそ、じゃあ放送部組は遊園地行けないのか。別の日にする?」

「えー、いいよいいよ。私らは今度三人で行くから、五人で行ってきな。早苗、日曜のイベント行きたかったんでしょ?」

「じゃあ、次は理央も入れて八人で遊びに行こうね。絶対だからね」
 
廊下付近のスペースでは、地味な女子生徒たちが群れを成して昼食を摂っていた。七人組とは、随分な大所帯だ。その他の生徒たちは少人数のグループを作り、それぞれ思い思いの時間を過ごしている。室内の雰囲気は穏やかで、その光景は日常という言葉を具現化したかのようだった。

「あれ、二組の人に何か用事?」
 
通路前で呆然と突っ立っていたのが気になったのか、教室の奥にいた女子生徒がこちらに声を掛けてきた。二つに束ねられた毛先は、くるんと短く丸まっている。前髪の下にある双眸はくりりと大きく、彼女をより幼く印象付けていた。

「夏川莉苑を探してて」

「莉苑は私だよ?」

「あ、そうなのか」
 
なんとなくばつの悪さを感じて、祐介は自身の首筋に手を当てた。目の前に立つこの少女こそが、件の夏川莉苑らしい。

小首を傾げる少女のシャツは一番上まできちんとボタンがしめられており、そこから赤いリボンがぶら下がっている。さすが学年一位。優等生らしい、きちんとした着こなしだ。

「あのさ、川崎の件で聞きたいことがあって」

「朱音の?」
 
ひくりと、夏川の頰がひきつった。彼女は慌てた様子で周囲を見回すと、扉の外を指さした。

「その話はここじゃできないから、どっか別のところに行かない?」
 
祐介が応じるよりも先に、夏川は既にこちらに背を向けていた。ずんずんと前を突き進む少女の小さな背中を、祐介は黙って追いかける。遠ざかる教室からは多くの少女たちの笑い声が響いていた。


「こっちこっち」
 
夏川が向かった先は、北校舎裏の狭いスペースだった。隣接する道路との境に位置するこの場所には、いたるところに緑色のフェンスが張り巡らされている。

設置された手洗い場は老朽化のせいで見目が悪く、祐介もグラウンドにある手洗い場が混雑しているときにしか利用しない。

「ここなら人も少ないから」
 
夏川は手でひさしを作り、屋上を見上げた。川崎朱音は、あの屋上からここに向かって飛び降りたのだ。遺体があったであろう場所は、既に清掃されて元通りになっている。

「昼休みなのに悪いな。飯、食べなくていいのか?」

「うん、大丈夫だよ。ところでさ、君のお名前は?」
 
にっこりと笑顔を浮かべたまま、夏川は小首を傾げた。そういえば、自己紹介がまだだった。祐介はできるだけ人当たりの良い表情を浮かべようと、意識して口角を持ち上げる。こう見えて、愛想笑いは得意だった。

「俺は三組の一ノ瀬祐介。サッカー部」

「サッカー部ってことは、純佳の友達?」

「純佳って高野のことか。まあ、友達だな」

「純佳、サッカー部で活躍してる?」

「優秀なマネージャーだよ」

「そうでしょそうでしょ」
 
夏川が胸を張る。『朱音』に『純佳』。友人の名を紡ぐ彼女の声は、気安さを感じさせるものだった。恐らく、仲がいいのだろう。高野とも、死んでしまった川崎朱音とも。無意識のうちに、祐介はズボンのポケットに入れたスマホに触れていた。

「で、私に聞きたいことって何かな? さっき朱音のことって言ってたけど、もしかして一ノ瀬君、朱音のことを調べてる?」

「まあな」

「へえ」
 
一瞬、夏川の眼が鋭く光った。その唇が、何かを言いたげに微かに震える。喉を焼くような緊張感。夏川は上目遣いにこちらをじっと見つめていたが、やがてその表情を和らげた。にこりと、彼女は無邪気そうな笑みを浮かべる。

「で、朱音に関して何が聞きたいの?」
 
扱いにくい女だな、と祐介は内心で舌打ちした。コロコロと変わる表情からは、思惑が透けて見えない。オーバーすぎる感情表現に、祐介は作りこまれたあざとさを感じた。

「あの日、夏川はここで川崎が死ぬところを実際に目撃したんだよな?」

「うん。理央ちゃんといたらね、空から朱音が降ってきたの」
 
降ってきた、とはすごい表現だ。友人の死を説明するにしては、いささかあっけらかんとしすぎている気もする。眉間に寄った皺をごまかすように、祐介は前髪を指で梳いた。

「理央ちゃんっていうのは、近藤のことだよな?」

「そうだよ、近藤理央ちゃん。クラスメイトなんだ」

「そもそもなんだけどさ、夏川と近藤はどうしてあの日ここにいたんだ?」

「偶然だよ。偶然、私が理央ちゃんを見掛けたの」
 
そこに座ってたんだよ、と夏川は端の方に設置された古ぼけたベンチを指さした。プラスチック製のベンチはかなり年季が入っており、塗装はすっかり色褪せている。

「近藤はそこで何してた?」

「あー……」
 
夏川の視線が、不自然に逸らされた。

「えっとね、詳しいことは秘密なんだけどね、理央ちゃんが手紙を破いてたの」

「はあ?」
 
予想外の返答に、思わず声が裏返ってしまった。あ、と夏川はいきなり顔を赤くする。

「手紙の内容は秘密だよ」

「内容云々より、まず手紙を破ってたって状況が分からん」

「それはまあ、色々あったってことで。一応、あの事件の後に先生たちと破った手紙を回収したんだけど、よくよく探せば今でも切れ端ぐらいなら残ってるんじゃないかな。探してみる?」
 
そう言うなり、夏川は側溝の中を覗き込んだ。昨日の雨のせいか、水路の壁にはうっすらと茶色の線が残っている。水位の痕だろう。夏川は口端を舌で舐めると、そのまま側溝の中に手を突っ込んだ。

「いや、なにやってんだお前」
 
目の前の夏川の行動に、さすがの祐介も面食らう。当の本人は頓着した様子もなく、ここかなー? と側溝の中をまさぐっている。

「お、見つけたよ」
 
そう言って、彼女は何かを摘まみ上げた。その指先に挟まれているのは一枚の紙片だ。どこかに張り付いていたのだろう。湿気を吸ってよれていたものの、それは紙と認識できる状態を維持していた。

「手、出して」
 
促されるままに手を出すと、夏川が紙片をその上に置いた。目を凝らしてみると、薄っすらとピンク色であることが分かる。

「いらねー」

「いいじゃん、記念にとっておきなよ」
 
くひっ、と夏川が奇妙な笑い声を上げる。せっかくの可愛らしい容姿も、この妙な笑い方のせいで台無しだ。
 
彼女は跳ねるような動きで手洗い場に向かうと、そのまま念入りに自身の手を洗い出した。側溝に手を入れたのだから当然か。校舎の陰となる一角に、祐介の視線は自然と吸い寄せられる。つま先でトンと地面を叩いたのは、動揺したときの祐介の癖だった。

「夏川はさ、よく学校に来られるな」
 
夢中になって石鹼を泡立てている夏川の背に、祐介は素直な感想を投げかける。彼女は振り向かなかった。

「どういう意味?」

「普通さ、女子って友達が死んだらすげー悲しむんじゃねえの? 実際に、高野も近藤も学校を休んでるわけだ。でも、お前は川崎が死んでからも学校に来てる」

「変かな?」

「変って思われても仕方ないとは思う」
 
夏川が蛇口をひねる。白い泡に覆われた指先を、彼女は丁寧に水で流していく。

「私は純佳みたいに朱音と幼馴染だったわけじゃないからね。それに、休んでもどうにもならないって分かってるから」

「どうにもならないって?」

「そのままの意味だよ。私が何をしようとも、朱音が生き返るわけじゃない。だったら、家で塞ぎ込んでても意味ないでしょ?」
 
他の生徒たちとは明らかに違う、感傷を挟まない整然とした言い分に、祐介は好感を抱いた。スカートのポケットからハンカチを取り出し、夏川が手に付着した水滴を拭う。綺麗な手だと思った。

「お前、メンタル強いな」

「そう? 自分では思ったことないけど」
 
誉め言葉のつもりだったのだが、夏川の反応はイマイチだった。膝丈のスカートのプリーツを整え、彼女は祐介に向き合う。睫毛に縁取られた彼女の瞳が、ぬるりと光った。

「ねえ、一ノ瀬君はどうして探偵ごっこをやってるの?」
 
ごっこ、という言葉は、明らかにこちらを揶揄するような響きを含んでいた。内心を探られたくなくて、祐介はとっさに顔を背けた。自然とまた、ポケットに手が伸びる。

「別に。ただ、真実が知りたいだけだよ」

「ふうん、カッコいいね」
 
彼女の唇が、ニンマリと弧を描く。その視線が、祐介の手の上へと突き刺さった。

「でもさ、そういうのってドラマの世界ならいいけど、現実ではやめた方がいいと思うよ」

「なんでだよ」
 
聞き返す声は、自分で思ったよりもずっと不服そうだった。協力的な彼女のことを、勝手に自分の理解者だと思い込んでいたからかもしれない。
 
夏川が人差し指の先端をこちらに突きつける。丸く切られたその爪先が、シャツ越しに祐介の胸を戯れに突いた。
 
彼女は言った。

「一ノ瀬君はさ、ただの傍観者に過ぎないんだから」


家に帰り、真っ先にベッドに倒れ込む。枕に顎を乗せ、祐介は例の動画を再生する。屋上から、少女が落ちる。悲鳴が聞こえる。カメラの端に映りこむ、紙片の白。濃い夕焼け。画面を支配する、赤、赤、赤。

「……なんだよアイツ」
 
学習机の上には、回収した紙片が置かれている。水分を含んだせいですっかり色褪せてしまった薄桃色の紙片は、祐介に桜の花びらを連想させた。

「ただの傍観者なんかじゃねえよ、俺は」
 
SNSを起動させ、祐介はそこから個人のアカウントページを開く。例の動画のメッセージ欄には、今日も多くのコメントがついていた。匿名のアカウントでアップロードされた、自殺の決定的瞬間。『お気に入り』を示す数字は、昨日よりもさらに増えていた。

『飛び降りちゃった子、可哀想。悩んでたのかな』

『もう校舎裏に行けないよ、幽霊とか出そうだし』

『どうせやらせだろ、動画加工したに決まってんじゃん』

『ご冥福をお祈りいたします』

『自殺するなら迷惑かけない場所でどーぞ』

『この動画、誰が撮ったんだろう』
 
動画に対する反応は、人によって様々だ。コメントを送るアカウントの中には、同じ学校の生徒だと思われるものも紛れている。ネットの海に送り出された一本の動画は、瞬く間に拡散され、大きな反響を巻き起こした。コメントの間に挟まれた、機械的な一文。

『おめでとうございます、話題の投稿です』
 
咄嗟に、祐介は唇を手で覆った。それでも笑いが込み上げてきて、祐介はじたばたと足を動かした。みんなが、この動画を見ている。

──俺が撮った、この動画を!

「はーっ」
 
ゾクゾクする。興奮が血管を伝い、全身の細胞に染み渡る。脳みそに熱が回り、理性が形なく溶けていく。

あの日、祐介は北校舎裏に偶然居合わせていた。グラウンドの手洗い場が他の生徒たちに占領されていたので、わざわざ空いている北校舎裏の手洗い場にまで向かったのだ。
 
部活動の恰好のまま祐介が通路を歩いていると、不意に話し声が聞こえてきた。壁越しに覗いてみれば、珍しいことにその日は二人の女子生徒がいた。こちらに背を向けていたためその顔は見えなかったのだが、今になっては分かる。あの場にいたのは、夏川莉苑と近藤理央だ。

片方の少女が空を見上げた。その視線を追いかけるように屋上を見上げると、川崎朱音の姿が見えた。カメラを向けたのは咄嗟の判断だった。ズーム機能を最大まで駆使し、祐介は川崎朱音の死の一部始終をスマホに収めた。

その後、祐介は二人に気付かれないように校舎裏を後にした。クラスメイトが降ってきたことは、二人にとってはよっぽど衝撃的だったのだろう。彼女たちがこちらに気付いた様子はなかった。
 
受験、推薦。刹那的に浮かんだ単語が、祐介の意識を強く支配した。第一発見者として現場にいたとなれば、騒動に巻き込まれるかもしれない。それに、あの距離からの飛び降りだ、自分が何をしたってどうせ助からない。即座に組み立てられた推測は、祐介に逃亡を選択させた。
 
もしもあの場にとどまっていたら。良心の呵責が生み出す仮定を、祐介は拒絶する。あの時祐介にできたことは、この動画を撮ることだけ。真実を伝える、ただそれだけだった。自分はやれるだけのことはやった。責められる理由なんて、一体どこにあるというのか。

「俺たちは皆、知る権利を持っている」
 
スマホを切ると、画面は一瞬にして黒く染まる。そこに映る自分の口元は、歪に引き攣っていた。

*   *   *

続きは12月27日公開予定

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