#2 最愛の息子を亡くして…大人も泣ける山田悠介作品!
愛する息子・優を病気で亡くした泰史と冬美は、ある会社を訪れる。そこで行われているのは、子どものレンタルと売買。二人はリストの中に優そっくりの子どもを見つけ、迷わず購入を決めるが……。100万部を超えるベストセラー『リアル鬼ごっこ』をはじめ、若者から圧倒的な支持を受けている山田悠介作品。本書『レンタル・チルドレン』は、「大人も泣ける!」と評価の高いホラー小説です。その冒頭を特別に公開します。
* * *
十月二日。日曜日。
里谷泰史は、飛び上がるようにして目を覚ました。秋だというのに、全身が汗でビッショリだ。普段は真ん中分けの髪の毛も、グシャグシャに乱れている。よほどうなされたのか、毛布と布団が全然別の場所にある。シーツもめくれてしまっている。
泰史は、魂まで抜けてしまうようなため息をつき、肩を落とした。
悲しくて、嫌な夢だった。優と再会できたと思った矢先、離れていってしまったのだから……。
狭い寝室に、泰史はポツンと座っていた。隣に冬美の姿はなかった。どこにいるのだろう。布団はたたまれている。
時計の針は九時四十分を示していた。泰史は、小さな仏壇の前に正座し、線香に火をつけ、手を合わせた。
「優……おはよう」
しばらく、遺影を見つめる。写真はずっと笑顔のままだ。
泰史は乱れた布団をそのままにして立ち上がる。
喉が渇いた。身体が妙に重く感じられる。部屋の扉を開けると、涼しさを感じた。
どの部屋も明かりがなく、薄暗い。外が曇っているせいもあるが、今の家庭状況を表しているようだった。どんよりとした空気が張り詰めている。
泰史はキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口、二口と胃に流し込んだ。冷たい液体が、スーッと胃にしみていくのが分かる。喉を潤した泰史は、テーブルの椅子に腰掛けた。目の前には、冷めたご飯と焼き魚と味噌汁。冬美が作った朝食だ。一応こうして家事はしてくれるのだが、コミュニケーションがない。どうぞ食べてくださいと書かれた目に見えない紙が、置いてあるかのようだ。
泰史は箸を手に取り、重い口を開いて、少し硬くなったご飯を一口食べた。
食感だけだ。この二年、何を食べても美味しいと感じたことはなかった。食事は、餓死しないための事務的な作業になっていた。
こんなにも暗い生活を送ることになるなんて、誰が予測しただろうか。冬美が元気になってくれるだけでも、少しは違うのだが。
朝食を済ませた泰史は食器を流しに置き、キッチンを後にした。
休みの日が一番辛い。家にいても何をしたらいいのか分からない。気が紛れる分だけ、仕事しているほうがましだ。
一階の和室の横を通り過ぎた泰史は、気づかれぬよう中を覗いた。
部屋の真ん中には、正座する冬美の姿があった。優の写真をじっと眺めている。微かに肩が上下に動いているだけ。時折、深い息を吐く音が伝わってくる。
優が死んでから、ずっとこの調子だ。優が生きていた頃は明るく、お花の稽古にもよく行っていたのだが、今は家に閉じこもってしまっている。最愛の子供を失ったのだ。無理もないのだが、昔とは別人のようだ。
優がいなくなり、彼女は随分と痩せた。髪も背中の中ほどまで伸びている。スタイルに気を遣うこともなくなった。
冬美とは現在の職場で知り合い、二年間付き合って結婚した。泰史の一目惚れだった。当時好きだったアイドルに似たショートカット。チワワのような真ん丸の目が可愛らしく、泰史は胸打たれたのだった。
そして、お互い二十七歳の時に優が生まれた……。
写真を眺めている冬美が、こちらの気配を感じたのか、ゆっくりと振り返った。
「お、おはよう」
声をかけると、冬美は小さく口を動かした。
「おはようございます」
言葉に力がない。
「ここに……いたんだな」
「ええ」
「疲れてないか? 昨日は、大変だったから」
「大丈夫です」
「……そう」
冬美は向き直り、再び写真を見つめる。そしてこう呟いた。
「あの子が死んで、もう二年が経ったんですね。早いですね」
あっという間だった。昨日は優の三回忌だったのだ。
「ああ。そうだな」
突然、冬美の全身が小刻みに震えだした。
「どうして、あの子だけが……」
かける言葉が見つからず、和室を後にした泰史は二階に上がった。
なぜここにやってきたのだろう。悲しくなると分かっているのに。
〈優〉と書かれたプレートがかけてあるドアを開く。部屋の中は暗く、明かりをつける。
子供用の机の上はオモチャだらけ。床にも、プラモデルが転がっている。優が死んでからも、あえて当時のままにしてあるからだ。
泰史は、枕の横に置いてある、優が特に気に入っていた電子銃を手に取った。
クリスマスに買ってやったオモチャだ。引き金を引くと音が鳴る仕組みになっている。優は、肌身離さずこれを持っていた。そして、こちらに向けてバンバンと言いながら喜んでいた。それに付き合い、死んだふりをした。冬美も一緒に。笑顔が絶えなかった……。
まさかあれから一年足らずで、優が自分のそばからいなくなるなんて。
泰史は、机の上の写真立ても手に取った。
写真いっぱいに広がっている優の笑顔。幼稚園の運動会の時に撮ったものだ。
前髪が綺麗に揃っているのは、前日に泰史が切ったからだ。
冬美に似た真ん丸の目。自分とそっくりな薄い眉。大きな口はどちらに似たのだろうか。
活発な男の子だった。幼稚園ではリーダー的な存在だったらしく、いつもみんなを引っ張っていってくれると、先生にほめられていた。喋り方もハキハキとしていて、近所の人には、とても幼稚園児とは思えないと言われていた。
本当に将来が楽しみだった。まさか、五年でこの世を去るなんて……。
死因は、敗血症という聞いたこともない病名だった。細菌が原因らしく、発症すると生存する確率は、かなり低いとのことだった。大学からの友人が担当医を務めてくれたのだが、難しい説明ばかりで素人にはさっぱりだった。ただ、優の状態が徐々に悪くなっていることだけは明らかだった。
ICUで薬を投与してもよくなる気配はなく、血圧は低下していくばかり。もちろん最後まで諦めはしなかったのだが、病魔に克つことはできなかった。十月一日、午前五時四十分に、心臓停止が確認された。
あの時、どうしてこんなにも小さな命を奪うのだと、神を恨んだ。しかも自分ではなく、息子なのだと……。
あの日から、何もかもがおかしくなった。
大事な一人息子を奪われた冬美は半ノイローゼになり、今でもあんな状態だ。まさかここまで引きずるとは思ってもみなかった。初めての子供だっただけに、ショックが大きすぎたのだ。
そういう泰史も、全てに対して力が入らない。しっかりしているつもりなのだが、いつしか過去のことばかりを思い浮かべている。
もし優が生きていれば今頃は小学一年生か……。ランドセルを背負って、元気に登校している姿が目に浮かぶ。
行ってきますと言って、手を振る……。
二年前までは、この部屋に優がいた。明るい声が、家中に響き渡っていた。三十年のローンを組んで買ったこのマイホームも、ただ寝るためだけのものになってしまった。以前は、帰ってくるのが楽しみだったのだが。
泰史は我に返り、電子銃と写真立てを元の位置に戻した。家のチャイムが鳴ったのだ。急いで階段を下り、玄関を開けると、そこには和服姿の母が立っていた。
「か、母さん。どうしたんだよ」
昨日会ったばかりではないか。何か急な用でもあるのだろうか。
「ちょっと話があってね。上がらせてもらいますよ」
この日はいつも以上にツンとしている。あまりいい予感はしない。
「あ、ああ」
泰史は慌ててスリッパを棚から取り、母の足元に置いた。
「冬美さんは?」
「いるけど」
「三人で話がしたいの」
母はリビングのソファに腰掛けた。
「何の用だよ」
「いいから。揃ったところで話します」
冬美にあまり負担をかけたくはないが、追い返すわけにもいかず、泰史は再び和室に向かった。
キッチンから、冬美がお茶を運んできた。
「どうぞ」
母の前に湯飲み茶碗を置くが、お礼の一つも言わない。何が不満だというのだ。
「君も、座って」
冬美にそう促す。彼女は頷いて、泰史の隣に腰掛けた。
まず初めに口を開いたのは泰史だった。向かいに座る母に頭を下げる。
「昨日は、ありがとうございました」
「いいえ」
「疲れたでしょう?」
「疲れてなどいませんよ」
冬美は俯いたまま、黙って二人の会話を聞いている。
「それで、今日はどうしたの?」
改めて尋ねると、母はようやく本題に入った。
「優が亡くなって、もう二年が経ちました。あなたたち、もうそろそろ子供をつくってもいいんじゃないの? 里谷家を継いでくれる子がいないと困るじゃないの」
「何だ。そんなことか……」
つい口を滑らしてしまった。その言葉に母は敏感に反応した。
「そんなこととは何ですか。大事なことですよ。あなたたちのことを思ってのことです」
「分かってるさ。けど」
「あなたたち、もう三十四でしょう。年をとればとるほど子供はできにくくなるのよ。高齢になれば冬美さんの身体にだって負担がかかるし」
「知ってるよ。だから、つくろうと努力はしているんだけどさ……」
嘘だ。優が死んでから一度も、冬美の身体には触れていない。
「じゃあ、どうしてできないの。冬美さん」
語尾が強くなる。冬美はハッと顔を上げる。
「はい……」
「あなたが原因じゃないの?」
すかさず泰史が止めに入る。
「母さん! よしてくれよ。そういうことを言うのは」
室内に険悪な空気が流れる。母は、そっぽを向いてしまった。
母は昔から世間体ばかりを気にする人だった。小さい頃から勉強、勉強とうるさく、兄は特に母を嫌っていた。何かあると、あのくそばばあ、と洩らしていた。父は、母とは違って小難しい人ではなかったのだが。
五年前に父が他界して以来、寂しいのか、よく嫌味を言いに来るようになったのだが、ここまで言うとは……。冬美を傷付けるだけ、精神状態を悪化させるだけだ。
突然、母がスッと立ち上がった。
「どこ行くの」
「トイレよ」
もう帰ってくれよ、とは言えなかった。扉が閉まる音を確認し、泰史は冬美の肩に手を置いた。
「あまり……気にするなよ」
冬美は、頷きもしなかった……。