見出し画像

糸 2┃林 民夫

高橋漣 平成二十一年 旭川


高橋漣が生まれたのは平成元年だった。
一月八日、早朝に産声をあげた。

「平成初の赤ちゃんですよ」
助産師の女性に言われて、漣の父親は、思わず立ち上がった。抱いていた漣を落としそうになった。と、漣はのちに、聞かされたことがある。父親は話を盛る癖がある。生まれたばかりの赤ん坊を落とすわけがない。

自分たちはとんでもない奇跡を起こしたのかもしれない。父親は動転したそうだ。新しい時代に真っ先に生まれてきた我が子。日本中が騒ぎ出す、特別な存在。テレビのインタビューを受ける自分にまで想像が膨らんでしまったらしい。「この病院ではね」と、助産師が付け加えるまでは……。

漣が生まれたのは午前八時過ぎ。なんのことはない。平成生まれの赤ちゃんは、すでに日本全国で続々誕生しており、漣は、どこにでもいる、赤ん坊の一人に過ぎなかった。

「へえ、平成元年生まれなのか。もう出て来たか。平成生まれが」
新しい就職先のチーズ工房のオーナーが、面接の時、なぜそこに興味を示すのか皆目わからなかった。平成元年生まれで別段得をしたことはない。しいて言えば、今、平成何年なのか、瞬時にわかることぐらいだった。自分の今の歳に、一歳を足せばいいのだ。今、漣は二十歳。ということは、現在は平成二十一年だ。

リーマン・ブラザーズが経営破綻し、日比谷公園に年越し派遣村が開設された前年が終わり、平成二十一年は明けたばかりだった。オバマ大統領が就任演説をしていた。
漣にはすべてが遠い世界の出来事のように思えた。

バスが旭川空港に着いた。
北海道を出るのは、今日が初めてだった。
北海道を出るどころか、飛行機に乗るのも初めてだ。
漣は、搭乗手続きのカウンターに向かった。

画像3

幼い頃は、動くものが大好きだった。父親が上富良野で自動車修理工場を営んでいる影響だったのかもしれない。父親の軽トラックの運転席で、運転する自分を想像した。それだけならまだしも、店の修理した車にまで乗りたがるので、いつか漣は勝手にエンジンをかけて走りだしてしまうのではないかと危惧した父親は、自転車を買い与えた。子供には相応の動くものだった。

漣の住む町は、冬は雪が降り積もる土地なので、自転車を持っている子供は多くなかった。乗り方はすぐにわかった。漣はどこまでも走った。果てしなく続く一本道の向こうへ行きたかった。雲の向こうに行きたかった。その向こうになにがあるのかを知りたかった。
ぐんぐん走り続けた。心地よい風を浴びながら、いつしか未来への想いがどんどん沸き上がっていった。北海道を出たい。世界中を飛び回って生きたい。
そして、自転車は空を飛んだ。

十二歳の夏だった。
漣と、友人の竹原直樹は、北海道の田舎道を、自転車で競争するように、上富良野から美瑛の丘に向かっていた。サッカーの練習が長引き、花火を見逃しそうだったのだ。一時間以上走り続けた。もう夜になっていた。美瑛に近づくと、花火の音が聞こえた。丘に隠れて一部しか見えなかった。

漣はさらにスピードをあげた。目的地の美瑛の丘は、観光施設はなにもないが、空がやけに広く見える場所で、最近では観光客のツアーコースにも組み込まれるようになっていた。ようやく辿り着いた時、以上で花火大会は終了でございます、というアナウンスの声が聞こえた。気を取られて、目の前にいた親子連れに気づくのが遅れた。急ハンドルを切った瞬間、自転車が空を飛んだ。正確に言えば、自転車だけが空を飛んだ。

あとで竹原は、全然飛んでねえよ、せいぜい一メートルぐらいだよ、おまえが自転車から落ちただけだよと言ったが、漣はたしかに自転車が遠い夜空の向こうにどこまでも飛んでいくのが見えた。

周囲が草原でよかった。漣は土手のようになっている草原を転がった。自転車が空から落下した音が聞こえたのはそのあとだった。

生きていた。肘から血が出ているだけだった。女の子と視線が合った。背後に浴衣を着た女の子がいた。メイン会場から少し離れた場所にいたのは、その同世代の女の子二人だけだった。女の子が近づいてきた。漣は、恥ずかしくて、視線をそらし、肘の傷を触った。女の子が漣の前に立った。心地よい微かなにおいがした。

「大丈夫?」
尋ねたのは漣のほうだった。自転車で空を飛んで来たばかりの人間が言う台詞ではなかった。漣は苦笑した。大丈夫かと聞いてしまったのは、女の子が腕に包帯を巻いていたからだった。

女の子は、少し微笑んで、絆創膏を差し出した。
それが、園田葵との初めての出会いだった。
幼い頃から自転車で走り続け、その道の向こうで、漣は葵とめぐり逢ったのだ。

そんなことはもう遠い過去の出来事だった。
中学生の時の恋をいつまでも引きずっていたわけではない。忘れていたはずだった。
竹原のせいだ。あいつがあんなことを言うから、もうどうすることもできない八年前のことを思い出してしまうのだ。あいつがあんな電話をしてこなければ……。おまえのせいだよ、竹原。漣は、竹原に、心の中で毒づきながら、搭乗手続きを終えた。

現在の自分が駄目なのは、現在の自分のせいであり、過去とは関係ない。世の中が自分の思い通りにならないことは、十二歳の頃から知っている。

漣は二十歳になった今も、自分が主役になるような特別な瞬間にめぐり逢ったことはない。時代の渦の中心にいたことは一度もない。

出発にはまだ一時間ある。漣は、搭乗ゲート近くの椅子に腰を下ろした。
羽田空港から結婚式場までのルートは数日前から頭に叩き込んである。
『弓と結婚する』というメールが来たのは半年ほど前だった。竹原は、八年間、付き合ったり別れたりを繰り返しながら、それを本当に運命の糸にしてしまったのだ。

美瑛の花火大会の日、葵と一緒にいたもう一人の浴衣を着た女の子が後藤弓だった。

当時、漣は携帯電話を持っていなかった。竹原は、漣の壊れた自転車を回収するため、農園を営む父親に、軽トラックで迎えに来てもらうように電話したあと、弓の携帯電話の番号もしっかりと聞き出していた。漣は、葵に絆創膏を貼ってもらっていて、その時はまったく気づかなかった。葵の髪が夜の風に揺れていた。

翌日、竹原は、弓と一度しか会っていないのに「運命の糸」だとバカみたいに吹聴していた。だからおまえも携帯電話を買えと言ったんだと、弓からのメールを見せびらかしたあと、竹原は、「もう一人は園田葵」と、漣の反応を楽しむように、顔を近づけた。
「絆創膏の子だよ」
「……へえ」
特に興味もないといった返事をしたのを覚えている。

すぐに走りだした。自転車は壊れたので、母親のママチャリだった。葵は隣町の中学校に通っていた。偶然を装って再会した。うまくいったと思う。その辺りのことは、もはや断片的な記憶しかない。葵がもう腕に包帯を巻いていなかったことだけは覚えている。
美瑛の丘で、流れる雲を一緒に見た。空が広かった。何度か会うようになった。

「将来は、やっぱり国立競技場で試合がしたい。そんで日本代表になって、世界で活躍したい。世界中を飛び回って生きる」

無邪気にも本当に夢を描いていた。たしかあれは、葵が弁当を持って、漣のサッカーの試合を旭川まで電車で見に来てくれた帰り道だった。漣は美瑛の駅で降りて、家の近くまで葵を送った。夏のやわらかい風が吹いていた。

葵がぼそっとつぶやいたことを覚えている。
「私は普通の生活がしたい。世界になんか行けなくていいから」
たぶん、それは、その頃の、葵のたったひとつの切実な夢だったのだ。

定刻通り、羽田空港行きの飛行機は飛び立った。
離陸する時、こんなにスピードをあげるとは知らなかった。こんなに機体が斜めになることも知らなかった。内心興奮していたが、他の乗客に悟られないように、なんでもない振りをした。

サッカーは高校でやめた。自分よりうまい人間はごろごろいた。北海道の田舎町でさえそうなのだ。世界になど行けるはずがない。スポーツは優劣が如実にわかる。才能のある者は最初から才能があるのだ。サッカーをやっていて、漣が学んだことは、どんなに頑張ってもうまくいかないことがある、ということだけだった。そんなことはもうとっくに知っていた。あの十二歳の冬。ロッジで引き離されて以来……。

高校を卒業しても、やりたいことは特になかった。父親の整備工場を時折手伝ったり、ガソリンスタンドでバイトをしたりした。展望も情熱もなかった。未来のことを考えると頭がおかしくなりそうだった。とにかく就職しようと、目についたチーズ工房に飛び込んだ。一年前だ。竹原からの電話さえなければ忘れていたのだ。園田葵のことは。

サッカーの試合の日、葵は弁当を作って持ってきてくれた。
漣は事態が切迫していたことにまるで気づいていなかった。ただ舞い上がっていた。

「葵ちゃんのことが好きだ」
漣は勇気を出して、帰り道に告白した。

「帰りたくない」
葵は漣のシャツを摑んだ。手は震えていたかもしれない。

なぜ葵を家に帰してしまったのか。漣は今でも後悔している。それは葵からの初めての意思表示であり、SOSだったのだ。日は暮れかかっていた。「明日また会えるよ」「お父さんとお母さん、心配してる」つまらないことを言ってしまった記憶がある。今考えてみれば最低だった。突然断ち切られる日常がある、ということを知らなかったのだ。

翌日、葵は待ち合わせ場所の美瑛の丘に来なかった。
送り届けた家の近くまで行ってみると、自転車に乗った後藤弓がいた。葵はその日、学校を無断欠席したらしい。
「あの家、ちょっとおかしかったから、心配で」
弓は事態にうすうす勘付いていたようだ。
葵の父親は亡くなっていた。母親は若い男と住んでいるらしい。葵は家の話をしたがらない。弓は、知っていることを、教えてくれた。

葵の家は昔ながらの古い民家だった。ガラス戸はあかなかった。ひっそりとしていた。
「出て行ったよ。今朝、早く。逃げるようにね」
近所のおばあさんが目撃していた。おばあさんは鋭い眼光で、煙草をくわえていた。葵がこの家で、夕ご飯を食べさせてもらっていたことを弓は噂で聞いていて、訪れたのだ。

いつも若い男の怒鳴り声が聞こえていた。何度か役所には掛け合ったけど、母親は男のほうをかばうからね。おばあさんは大きな息をついた。その煙草のにおいを覚えている。
それは、葵が弁当を作ってサッカーの試合を見に来た、翌日のことだった。うまい。こんなうまいもん食べたことがない。漣は弁当をあっというまに平らげた。
「昨日、あの子、古いお弁当箱を持ってきてねえ、料理の仕方教えてくれって。あの時のあの子……嬉しそうな顔して」

帰りたくないと、震える手で漣のシャツを摑んだ意味を、初めて悟った。
そうして葵は漣の前から、突然姿を消した。

画像3

飛行機の窓からは東京の街並みが見えた。
「彼女も来るぞ」
竹原からそんな電話が来たのは数日前だった。
以来、漣は葵のことを思い出してばかりいる。最初、彼女も来るぞという言葉に、ガソリンスタンドでバイトしていた時、少しだけ付き合った彼女を思い描いてしまった。その彼女は、別の男とも付き合っていた。
「園田葵だよ」
「……へえ」
竹原がほくそ笑むような声を出したのを覚えている。
弓が、渋谷で偶然、二十歳になった葵と再会したらしい。弓は葵を結婚式に呼んだのだ。

葵は東京にいた。八年間、東京でなにをしていたのか。
羽田空港に到着するアナウンスが流れた。
手にじっとりと汗が滲んでいた。
初めて飛行機に乗ったからでも、初めて東京に来たからでもなかった。
あの時美瑛の花火大会でめぐり逢った四人が、東京で顔を合わせる。
そして漣は、数時間後には、園田葵と再会するのだ。

*   *   *

電子書籍はこちらから

画像1