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「ディレクターの墓場」での日々…この小説を書くために、NHKを辞めました #2 ガラスの巨塔

巨大公共放送局で、三流部署ディレクターからトッププロデューサーにのし上がった男がいた。手がけた『チャレンジX』は、視聴率20%超の国民的番組となり、特別職に誰よりも早く抜擢される。しかし、天皇と呼ばれる会長が失権すると事態は一転し……。元NHKプロデューサー、今井彰さんの『ガラスの巨塔』は、組織に渦巻く野望と嫉妬を描ききった「問題小説」。その存在意義が問われている今こそ読みたい、本書の一部をご紹介します。

*  *  *

その半年前、一九九一年一月、東京。全日本テレビ協会の報道フロアー。

湾岸戦争開戦から四日目。総動員体制が敷かれ、男たちがひしめき合っていた。大事件が起こると、報道局の記者やディレクターは自分の存在価値を示す場とばかりに必要以上に早口でまくしたてる。あちこちから怒鳴り声が聞こえ、騒然たる雰囲気だった。

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通常番組は次々と中止になり、戦争関連の特番に差し替えられた。報道セクションだけでは人手が足らず、通常は定時番組を作る番組局からも大勢のディレクターが手伝いに駆り出された。

「お前たちはアメリカ軍の戦力分析、特に戦闘機とミサイル担当だ。何でもいいから素材を集めろ。お前らは今後の地上戦を想定してイラクとアメリカの戦車担当。そこの五人は国内の識者の声を集める係だ」

報道の責任者が人足を振り分けるように、番組局のディレクターの担務をあっという間に決めていく。報道セクションの流儀が分からず、うろたえるディレクターたち。それを束ねる形で、グループごとに報道局の記者が責任者になり、次の指示を出す。

現場での力関係でいえば、圧倒的に記者グループが強い。俺たちは最前線で頭を使っているというプライドが顔や言葉の端々から覗く。次に日常的に記者と仕事をしている報道局のディレクター、最後が暇ネタばかりをやっているといわれる番組局のディレクターである。

報道局からの動員要請を番組局が断ることはありえない。まして大事が起これば言われたとおりの人数を出す。だが番組局もしたたかだ。エース級のディレクターは温存し、能力が低いと見なされている者か、三流部署のディレクターを差し出すという按配である。

「ぐずぐずしないでよ。こんな素材じゃコメント書けないでしょ。あれ、テロップの僕の名前まだなの、いやになっちゃうな」

三十そこそこの記者のキンキンと甲高い不快な声が辺りに響いた。文句を言われているのは番組局から送り込まれてきたディレクター、西悟だった。その若い記者の配下として戦車担当に回されていた。西は唇を噛んだ。自分より年下の記者のへたくそなコメントに合わせて映像をつながなければならない、このくだらない仕事が嫌で仕方なかった。

しかし、戻ったところで充足感はなかった。

西が所属するのは短い紀行番組や語学講座など、教育テレビや深夜早朝の誰も見てない視聴率〇パーセントの三流部署だった。

全日本テレビ協会は報道局、番組局、編成局、技術局、営業局、総務局などの局制と会長直轄の人事部や国会対策室などの部署に分けられている。一万人を超す社員のうち、記者やディレクターなどの現場は三〇〇〇人、事務管理部門が七〇〇〇人を超える。番組、ニュースという「もの」を作る会社でありながら、事務管理部門が異様に多い。自由な表現活動を保障された放送会社というより、統制が張り巡らされた官僚機構といえた。

ディレクターは採用後、最も優秀と見なされた人間が本部と大阪、名古屋などの地方本部に配属される。それ以外はローカル放送局を回る。そこで最低四、五年勤務した後、東京の八つのセクションに異動する。教養部、科学部などのエリート部署に入り込むと、分厚い派閥に守られながら、ディレクター、デスクと出世の階段を上ってゆく。その先にはプロデューサー、そして部長への道が開かれている。配属されたディレクターの表情には「選ばれし者」の余裕がにじみ出る。セクショナリズムは強固だった。

西はその他大勢、いや、それ以下のディレクターだった。学生時代からドキュメンタリー番組を作ることを夢見ていたが、採用はフランチャイズ要員だった。

フランチャイズ要員とは、その地域限定の放送にしか関われず、特別の例外を除いては東京へ上がることはない。定年までその地域で過ごす放送要員のことだ。

九州のローカル放送局に配属された西に与えられたのは、五分程度のローカル番組に、天気予報の送出係、中継の担当などだった。本部から送られてくるニュースや番組でほとんどの枠を賄う地方支局は、予算も人員も、そして機材などのリソースも貧弱だった。

番組への溢れる情熱と着想を証明する唯一のチャンスが全国放送の企画を出すことだった。地方支局の仕事に追われながらも、西は時間を惜しんで企画書を書き続けた。やがてその何本かが採択され、西は力の限りを尽くして番組を作り、「九州に西あり」と評されるまで力をつけた。

ドキュメンタリストを志す西は東京の教養部への異動を熱望したが、西の能力に目をつけたローカルの放送局長はその希望を黙殺し、自分の出身部署に西を売り渡した。結局、十年近く二つの地方支局を這いずり廻り、泥水をすする日々を過ごした末に西が辿りついたのは、東京本部でも「ディレクターの墓場」と呼ばれる三流部署だった。西にとって唇を噛み締める失意の日々が続いていた。

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湾岸戦争開戦から六日目のことだった。CNNをはじめ海外の放送局が花火のように明滅するバグダッド空爆の映像を皮切りに、破壊の様を生中継でテレビに放出し続けていた。

まるでゲームみたいな戦争だな。

報道フロアーにいた西はうんざりしていた。辺りを見ると、忙しく動き回る記者たちは皆、ネクタイをきっちり締めている。顔出しのリポートがいつあってもいいように準備万端なのだ。服装に無頓着な西はいつもと同じ、黒の格子が入ったジャケットに柄シャツ姿で、記者たちの洋服の品定めなどしながら時間をつぶしていた。

何気なくテレビ画面に目を移した次の瞬間だった。

西は衝撃の映像に、息を呑んだ――。

拷問により、無残に腫れ上がった男たちの顔が目に飛び込んできたのだ。

それはイラクの国営テレビに映る、傷つき果てたアメリカ兵捕虜四名の姿であった。

無数のみみず腫れと醜い傷を刻まれた捕虜たちは、一人ずつ画面に登場しては、自らの階級と所属部隊、そしてアメリカの非道さを、焦点の定まらない目でロボットのように繰り返した。

「我々は平和に暮らす罪もないイラクに侵攻してしまいました。アメリカは大きな間違いを犯してすみません」

銃で脅されているのか、薬物による混濁なのか、あるいは拷問で精神が崩壊したのか、尋常な様子とは到底思えない。のちに人間の盾と呼ばれ、世界中を震撼させるセンセーショナルなニュースであった。

西はその捕虜映像に映し出された一人の男を凝視し続けていた。

ジェームズ・ダーデン少佐、イラクのミサイルによって撃ち落とされ捕虜となったアメリカ空軍のパイロットだった。乗っていたのはF16戦闘機、トップガンだ。他の捕虜たちの視線は宙を漂っていたが、ダーデンの目だけはかろうじて正気を保っているように見えた。

ダーデンは三十五歳、西と同じ歳だった。

西は故郷の田舎町に暮らす自分の老いた親を想った。

“俺が報道局の隅っこで奴隷のように使われているこの時に、同じ歳の男がイラクで拷問を受けている。こいつの親は今、どんな思いで息子のむごたらしい姿を見ているんだろう”

西のディレクターとしての本能が無性に疼いた。戦争の凶々しさ、無慈悲さを探りたい。その衝動を、西は抑えることが出来なかった。

翌日、事態は動き始めた。報道局に派遣されている二十人の番組局ディレクターたちが番組局第一会議室に招集された。その前に将来の重役と噂される番組局企画室部長の真行寺義宗が腕組みをして押し黙っている。

歳は四十代後半だが、総白髪だった。報道局との強いコネクションを武器に、異例の速さで昇進している男だった。痩身で、冷酷にも見える端正な顔をした真行寺は、沈黙を楽しむように長い間をつくったあと、おもむろに口を開いた。

「わが全日本テレビは重要な局面にいる。戦争が始まって一週間になるが、独自映像がほとんどない。聴取料を三万円も取りながらこの程度かという非難も聞こえ始めている。海外映像とフリーランスの連中の細切れ映像に頼っているのが現状である。

そこで諸君になんでもいい、全日本テレビしか撮れないものを海外で拾ってきて欲しい。なんでもいいんだ。難民キャンプでもアメリカ兵の昼寝でも構わない。希望者はいるか」

開戦から一週間を迎え、CNNやABCから送られてくる、ありていにいえば金を払って購入した戦争映像を垂れ流すだけの手法に限界が来ていた。

アジア最大の放送局、世界に二十八のネットワークを有すると自負する全日本テレビ協会は、開戦からまもなくイラクの隣国、ヨルダンに前線基地を設営した。豪華なインターコンチネンタルホテルの二フロアーを占拠し、数十人の記者やディレクターを送り込んだが、誰も戒厳令下のイラクに入ろうとはしなかった。それどころか多くの事務職たちをロジスティック部隊として派遣し、日本米を持ち込み、三食の飯の確保こそが最優先事項だった。同じ時期にアンマンに入った新聞、テレビが飯を分けてくれと言っても拒むなど、顰蹙も買っていた。

上層部は前線に期待出来ない以上、何でもいいからとにかく独自映像を集めさせようと躍起になった。一本の番組を作りきる力のないディレクターたちもニュースの断片になるような映像くらい取ってくるのではないか。上層部の思惑は見え見えだった。

真行寺の言葉に、ディレクターたちは探り合うように辺りを見回した。

西に逡巡などなかった、身震いして決然と手を挙げた。

「戦争捕虜の家族を撮りたいと思っています。是非、アメリカに行かせていただきたい」

真行寺は、何を思ったのか、くっくっと咽喉仏を鳴らして笑うと大きくうなずいた。

翌日の夜、成田発最終便アメリカ行きの機内に西の姿があった。このフライトが西悟の運命を劇的に変えてゆくことを、西自身もちろん知る由もなかった。

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