あの日_朱音は

その日、朱音は空を飛んだ 3┃武田綾乃

翌日も、天気は悪かった。降り続ける雨は次第にその勢いを増し、通学路は色とりどりの傘で溢れている。深緑色の生地を引っ張れば、傘は柔らかにしなり、そこから水が流れ落ちた。濡れてしまった指先を自身のシャツに擦り付けながら、祐介は前を歩く二人を見遣る。

「手土産ってさ、コンビニのプリンでいいのかな」

「いいだろ、クラスの女子が高野はそれが好きって言ってたし」
 
俊平が手から提げているレジ袋には、コンビニで販売されている少し高めのプリンが入っていた。高野の見舞いに行こう。今日の部活が休みになったという知らせが届いたと同時に、俊平は意気揚々とそう提案した。

祐介が素直にそれを受け入れたのは、友人の恋路がどうなるかという野次馬的な興味も勿論あったが、それ以上に自殺現場を目撃した高野がどのような状態なのか、直接この目で確かめたかったからだった。

「それにしても、いきなり野郎三人で家に押しかけたら迷惑じゃないか?」
 
祐介の指摘に、俊平が不安そうに眉を八の字に曲げた。

「やっぱそうかな?」

「俺だったらヤだけど」
 
こちらの台詞にショックを受けたのか、俊平がわたわたと慌てだした。幸大がなだめるように言う。

「ちゃんと高野には連絡してあるから大丈夫だ、部活の練習表を届けに行くって伝えてある」

「おー、さすが幸大。次期部長なだけはある」

「それは関係ないだろ」
 
次期部長という呼称に、幸大は満更でもない顔をした。部長という肩書きがあると、大学入試の際に推薦を受けやすくなるらしい。一見すると献身的な男のようにも見えるが、彼は意外と打算的だ。その点、俊平は本当に裏表がない。

「あー、高野に迷惑って思われてなきゃいいけど」
 
青い顔でしきりに腕を擦る俊平に、祐介と幸大は互いに顔を見合わせて笑った。恋する男ほど見ていて滑稽なものはない。

「アレじゃね?」
 
スマホの地図画面と見比べながら、幸大が道の先を指さす。高野の家は、学校から歩いて十五分ほどの場所にあった。住宅街から少し離れたところに佇む、年季の入った一軒家。WELCOMEと書かれたボードを持つウサギのオブジェは、赤い長靴を履いていた。

「ほら、お前がいけよ」

祐介に背を押され、俊平が恐る恐るインターホンのボタンを押した。間の抜けたチャイムの音が鳴り響き、そこからおっとりとした女性の声が聞こえてきた。

「はい、どちらさまでしょう?」

「あの、高野さんはいますか? 俺たち、サッカー部の人間なんですが、プリントを届けにきました」

「あら、純佳のお友達。ちょっと待ってね」
 
機械越しに聞こえる母親の声は、高野に似て落ち着いていた。緊張しているのか、俊介がしきりに咳ばらいする。幸大は身なりを気にするように、シャツの襟首を正していた。コイツら馬鹿だなと思いながら、祐介は自身の前髪を指先で整える。
 
数分後、ようやく扉が開いた。開いた隙間をふさぐように、高野は姿を現した。
 
真っ先に目に入ったのは、彼女の肌の蒼白さだった。唇には血の気がなく、アーモンド形の目は暗く落ちくぼんでいた。

「雨の中ごめんね」
 
そう告げる高野の身なりは、普段よりもずっとラフだった。ボーダーのインナーに、灰色のパーカー。細いシルエットのジーンズの裾は、足首まで捲られている。

無意識のうちに、祐介は唾を呑んだ。普段はシャツで覆い隠されている胸元が、大胆に晒されている。滑らかな肌を辿るように視線をずらせば、くっきりと浮かぶ谷間がいやでも目についた。
 
退廃的な雰囲気を身に纏う彼女は、普段よりもずっと美しかった。

「濡れると大変でしょ、玄関まで入っていいよ」
 
その言葉に甘え、三人は玄関に足を踏み入れた。育ちざかりの男子高校生が三人もいては、靴を脱ぐために設けられたこの空間はやや狭い。しかし、高野は上がってとは決して言わなかった。

「ごめんね、まだ調子が戻らなくて」
 
そう言って、高野は困ったように眉尻を下げた。唇から漏れる声は、微かに掠れている。高校に入り、サッカー部に入部してから一年と数か月が過ぎようとしている。マネージャーとして高野とは長い付き合いになるが、こんな風に無防備な彼女は初めて見た。

「いや、急かすつもりはないんだ。ただ、高野が元気かなって思って」
 
俊平が早口で言葉を捲し立てる。そのどこかが琴線に触れたのか、何かを堪えるように高野は唇を嚙みしめた。眉根を寄せ、彼女は睨みつけるように俊平が差し出したレジ袋を見下ろした。

「……高野?」
 
戸惑いを隠さず、俊平が首を傾げる。高野はそこで我に返ったのか、その唇に弱々しい笑みを乗せた。

「ごめん、なんでもない」
 
長い指先が、掬い上げるようにレジ袋を受け取る。俊平は惚けた顔でその場に立ち尽くしていた。高野がくすりと笑う。

「お見舞い、来てくれてありがと」
 
それからいくらか世間話をし、三人は高野の家を後にした。重大なミッションを成し遂げたせいか、俊平の足取りは行きよりもずっと軽かった。鼻歌交じりにスキップする友人の呑気さが癇に障り、祐介は呆れを隠さず毒づいた。

「お前な、高野の胸見すぎ」

「見てねえって」

「噓つけ」
 
図星だったのか、俊平の声が裏返る。反論する俊平の声を聞き流しながら、祐介は足を進めた。ガードレールの向こう側を走る車はどれもびしょ濡れで、その大きなタイヤが水溜まりを轢く度に、濁った液体が勢いよく跳ね散った。

「でもさ、なんか今日の高野ってエロかったよな」
 
ぼそりと呟いた声の持ち主は、俊平ではなく幸大だった。

「だよな!」

と俊平が嬉しそうに同意する。

「なんというかさ、未亡人感があった」

「高野、彼氏とかいんのかなあ」
 
鼻の下を伸ばす男二人を無視し、祐介は高野の家の方向を振り返った。いくら高野が美人とはいえ、胸の谷間程度で陥落するとは情けない奴らだ。祐介は腰に手を当てると、大仰に溜息を吐いた。

「たとえ彼氏がいなくても、お前らには高嶺の花だけどな」

「分かってるよ」

肩を竦める幸大の隣で、俊平が抗議する。

「いやいや、夢見るのは自由だろ? 弱ってるときに優しくしたら好きになるってよく言うじゃん」

「お前、それでお見舞いに行こうとか言い出したのか」

「ま、お前は最初からそういう奴だよ」
 
呆れを含んだ視線を二方向から投げかけられ、俊平は逃げるように足を速める。傘を前のめりにさしているせいか、その背中は雨によって濡れていた。あれでは傘をさしている意味がない。離れていく背中を眺めながら、祐介は呟いた。

「アイツ、本当バカだよな」
 
俊平はいつもそうだった。前ばかりを見て、肝心なことに気付かない。もっと冷静に周りを見なければ、きっといつか痛い目を見る羽目になるのに。
 
はは、と笑う声が聞こえる。傍らを見ると、幸大が肩を震わせていた。

「なんだよ」
 
眦を吊り上げる祐介に、幸大は慌てて神妙な顔を繕った。その唇が真一文字に結ばれているのは、笑みを嚙み殺しているからだろう。

「俺、笑うようなこと言ったか?」

「ごめんごめん。ただ、祐介は俊平のことよく分かってんだなって思って」

「はあっ? 気持ち悪いこと言うなよ」
 
思わず顔をしかめた祐介に、幸大が口元をにやつかせる。

「別に照れなくていいだろ。仲良きことは美しきかな!」
 
そう潑剌と宣言し、幸大は高らかに傘を掲げた。コンビニで買った安物のビニール傘越しには、雲の隙間から覗く青空がはっきりと見てとれた。


帰宅して早々、祐介はベッドに寝転がった。小学生の時に買ってもらった学習机は、今の祐介には少し小さい。棚に並んだ参考書はすべて大学入試に向けて母親が買ってきたものだった。

雨の日の空気は、どこか重苦しい。目を閉じると、瞼の裏には先ほどの高野の姿が蘇った。乱れた黒髪、青ざめた唇。露出した肌の色は白く、仄かに甘い香りがした。客観的に見て、魅力的な少女だと思う。俊平や幸大たちが彼女の容姿に惹きつけられるのは祐介にも十分に理解できた。
 
でも、俺は騙されない。
 
スマホを取り出し、祐介は例の動画を再生する。数えられないほど再生した動画だった。そのワンシーンを一時停止すると、屋上に人影が映っていることが分かる。画質が粗いためにその人物が誰かまではハッキリと識別することはできないが、与えられた情報から考えて、コイツが高野純佳であることは間違いないだろう。

何故、川崎朱音は死んだのか。ひっそりと死にたかったのなら、何故死に場所に学校を選んだのか。遺書も残さず屋上から飛び降りた理由は何だ。考えれば考えるほど、祐介の脳内には一つの疑惑が浮かび上がってくる。
 
川崎朱音は本当に自殺だったのか。死ぬつもりなんてなかったから、遺書を残さなかっただけではないのか。

「なあ、高野」
 
──お前が川崎朱音を殺したのか。
 
画面越しの問いかけに、応える者はいなかった。


「一ノ瀬祐介」
 
名を呼ばれ、祐介は緩慢な動きで立ち上がる。木曜日の四時間目はホームルームだった。教壇に立つ担任が、先月に受けた模試の結果表を配っている。模試には多くの高校が参加しており、今の段階での自分の学力レベルを知ることができた。
 
担任から結果表を受け取り、祐介は机の上に広げる。志望校の欄に書かれた学校名は、すべて同じものだった。社会学部、文学部、経済学部、グローバル学部。学部を変えさえすれば、私立大学は何度も受験のチャンスがある。

祐介は大学に行って学びたいことなど何もなかった。ただ、プライドのために有名大学に行きたいだけだ。

「B判定かー」

顔を上げると、俊平がこちらの模試の結果を勝手に覗き込んでいた。祐介は肩を竦める。

「二年だしこんなもんだろ」

「中澤は既に志望校全部A判定らしい」
 
四組の中澤博は俊平の幼馴染だ。数字が得意な学年二位。中学の頃は帰宅部で、今は図書委員会に所属している。
 
所謂ガリ勉に分類されるタイプの中澤と、祐介はほとんど交流がなかった。それでも彼についての情報を他人よりも多く持っているのは、偏に目の前にいる男がしばしばその名を口にしているからだった。

「一緒に勉強させてもらえばお前も頭良くなるかもな」

「あー……でも多分、向こうが嫌がるだろうからなあ」

「幼馴染なのに?」

「幼馴染ったって、相性があんだろ。俺と中澤じゃ人間のジャンルが違うって言うかさあ……。祐介だって、中澤と二人っきりは気まずいだろ?」

「確かになぁ」
 
中澤は悪い奴ではないが、如何せん融通が利かない。一緒にいる価値を感じさせるような人間でもないため、積極的に交流しようという気にはならなかった。

「そういえばさ、」
 
そこで一度言葉を区切り、俊平は声を潜めて言った。

「中澤って、川崎朱音と付き合ってたらしい」

「はあ?」
 
思わず声が裏返った。俊平が慌てて祐介の肩を摑む。

「でかい声出すなよ」

「出してねえよ」
 
反射的にその手を払いのけ、祐介は頰杖をついた。

「全く、これ以上人間関係をややこしくすんなよな」

「何がだよ」

「こっちの話」
 
模試の結果表を裏返し、祐介は適当なスペースに「川崎朱音」と書き込んだ。その両サイドに「高野純佳」と「中澤博」の文字を並べる。

「中澤と川崎は付き合ってた。で、川崎と高野は幼馴染」

「そうそう」
 
祐介の説明に、俊平は律儀に相槌を打っている。祐介はその図にさらに他の名前を書き加えていく。

「川崎が飛び降りた日、封鎖されているはずの屋上には高野がいた。それに加えて、普段なら誰もいないはずの校舎裏には、夏川莉苑と近藤理央の二人が居合わせていて、現場を目撃してる」

「まあ、あくまで噂だけどな」

「時刻は夕方で、川崎朱音はその日学校を欠席していた。なのにわざわざ学校に来て、屋上に向かってる。川崎には彼氏がいたわけだし、不幸のどん底だったとも思えない。遺書もない。自殺で片付けるには不自然な点が多くないか?」

「た、確かに!」
 
説明に納得したのか、俊平は膝を打った。俊平は自身のポケットからスマホを取り出すと、例の動画を再生した。この映像から、もっと他に情報を摑むことはできないだろうか。真剣な面持ちでスマホ画面を凝視する祐介に対し、俊平は間抜け面のまま頭を捻った。

「あー、考えてもわかんねーよ」

「だろうな。情報が圧倒的に不足してるし」

「じゃあ考えても無駄じゃん」

「そうとは限らねーだろ? もしかしたらどっかで真相に繫がる情報が得られるかもしれないし」

「真相かあ。祐介はさ、なんで真相が知りたいの?」

「なんでって、知りたいのが普通だろ。お前は気になんないの?」

「そりゃ気にはなるけど。今のままだと謎解きシーンのないサスペンスドラマみたいなもんじゃん」
 
言葉を区切り、俊平は動画を停止させた。ダークグレーの瞳が、画面の中の少女を捉える。

「どっちみちここで話してても新しい情報はないし、もし祐介に本気で調べる気があるなら、夏川に話を聞くのが一番いいだろうな」

「なんで夏川なんだ? 他にも目撃者はいるんだろ?」

「だって高野も近藤も学校に来てないし」

「でも俺、夏川と話したことないんだけど」

「大丈夫だって。祐介って意外と女子ウケいいから」
 
自信満々に言い切った俊平に、祐介はつい脱力する。彼の手に握られたスマホ画面は、未だ同じ光景で固まっていた。

*   *   *

続きは12月26日公開予定

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