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#3 もうここから出なければ…過去の記憶をたどる感動ミステリー

引っ越しの準備をしていた千波は、読んだ覚えのない一冊の本を見つける。ページをめくると、未開封の手紙が挟まっていた。差出人はYUKI。そこには、「わたしも人を殺したことがある」と書かれていた。YUKIって誰? 私は人を殺したの……? 『いちばん初めにあった海』は、過去の記憶をたどる旅に出た女性を描く感動ミステリー。その切なくも温かな真実に、心震えることでしょう。物語の始まりを、特別にご紹介します。

*   *   *

家に戻ったときにはさすがに空腹を感じていた。箱を開けて粉砂糖をまぶした大きなシュークリームを一つかじった。カスタードクリームと生クリームの甘さが、口の中一杯にべとべと広がった。

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もう一つだけシュークリームを食べ、それから少しうとうとした。目覚めてから、さらに一つ食べた。美味しいと思ったのは最初の一口だけで、あとは少しも美味しいとは感じなかった。ただ、機械的に口を動かしていた。

はっと気づいたときには既に日は傾きかけ、シュークリームのパックは空っぽになっていた。六個入りの箱だった。長い長い時間をかけ、ゆっくりゆっくり食べはしたけれど……。それでも六個だなんて。一人で食べるには、いささか多すぎる量だ。自分の胃の中に、あのシュークリームだけがぎっしりと詰まっているのだと考えると、さすがにげんなりした。

もううんざりだ。そんなに欲しくもない食べ物を、ただ機械的に口に運び続けるような毎日は。

そう考えるのは、何も今日が初めてというわけではなかったが、今までになくその自己嫌悪の念は強かった。

当面は働かなくても食べるに困らず、特にやりたいことがあるわけでもない千波にとって、日々をひたすら単調に、そして怠惰に過ごすのは簡単だった。何もすることがなく、何もしたくなかった。けれど〈何もしないでいる〉ということも、実はとても難しいことだった。

学生の時、千波は勤勉な生徒だったし、卒業後に数年間勤めた会社でも、模範的な女子社員だった。定められたサイクルの中で、同じ場所に通い続け、時には不満を漏らしたりもしながら、おおむね安らかな時間を過ごすことができる類の人間だった。

ところがいざ、どこへも通わなくていいということになってしまうと、自分が何をしたいのか、どうしたいのか、まるで分からなくなっていることに気づかされた。それは千波を途方に暮れさせたし、毎日を不安の連続にしていた。

だから眠ることは千波にはある種の救いだった。ひとたび眠りさえすれば、時間は真夏の氷のように溶けていく。とても簡単だった。

千波にとって人生は、無理やり割り当てられたキャンディみたいなものだった。いくら胸がむかつこうが、舌がひりひりしてこようが、毎日毎日、定められた分量のキャンディをなめなければならない。千波にはそれが、ひどく苦痛でならなかった。

それはもちろん、キャンディの甘さを無邪気に喜んでいる人だって世の中には大勢いる。階上に住むユカリも、間違いなくそのうちの一人だ。彼女はむさぼるように、毒々しい色をした巨大なキャンディをせっせとなめ続けている。彼女のピンク色をした舌は精力的に動きつづけ、疲れることもなければ飽くことも知らない。その上、くるくるとよく動く眼は、常に別のキャンディを追っているのだ。

まるでカメレオンみたい。常々ユカリを見て千波がそう思うのは、決して皮肉でも意地悪な気持ちからでもない。

千波とユカリの年齢は、おそらくそう幾つも違わない。生活のために働く必要がないという点では同じような境遇だったし、その容姿だって、およそタイプは違うにせよ、そこそこの美人だという意味では似たようなものだ。

にもかかわらず、二人はあらゆる面で違っていた。千波はユカリのバイタリティを羨ましくさえ思う。だがそれ以上に、そのあまりの傍若無人さには胸が悪くなる思いでいた。彼女はとことん享楽的だったし、徹底的にインモラルでもあった。毒々しい色をした、甘すぎるキャンディに胸がむかむかするように、千波はユカリやその他の同じアパートに住むユカリと同じような女の子たちに、胸がむかむかしていた。

千波は自分が少数派であることは充分自覚していた。自分が紛れ込んだ異物であることも分かっていた。見てくれがいいだけが取り柄のようなアパートの、壁の薄さや防音工事のお粗末さに少しも思い至らなかったのは、つくづく失敗だった。そこに住んでいる他の誰かのことなんか、まるで考えもしなかった。ただ、一人になりたいと思った。誰にも干渉されず、できれば誰とも顔を合わせず、静かに暮らしたいとだけ願っていた。

それなのに。

確かにアパートの他の住人と顔を合わせる機会は、さしてなかった。そもそも彼女たちとは生活のサイクルが、きれいにずれていたのだ。たまにすれ違うときの彼女らはみな一様に、千波の質素な服装や、化粧気のない顔をじろじろと眺め、哀れみに似た表情を浮かべるのが常だった。完全に無視してくれた方が、どんなにか気楽だったろう? その上、深夜に及ぶ騒音である。これは千波にとって、まさに耐えがたい干渉だった。彼女たちはごく無造作に、千波からもっとも貴重な時間である夜を奪い、日の光を浴びて生活するべき昼を曇らせてしまった。昼と夜の境界が曖昧になり、四季の概念すら薄れてしまっている自分に気づき、千波は深い吐息をついた。

仕方がないことだ。そもそも生活する場を自分は間違えたのだ。ペンギンはジャングルでは生きていけない。砂漠で魚が泳ぐことはできない。できる限り早く、本来あるべき場所に還るべきなのだ。

どこか他のところに引っ越そう。寝不足で頭痛のする頭を抱えて鬱々としていたところで、何の解決にもなりはしない。

さんざん堂々巡りした挙げ句の、それが結論だった。

千波は小さく微笑み、すっかりぬるくなってしまったオレンジジュースを、新たにもう一杯コップに注いだ。

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「なんかぎすぎすした無愛想な子」

というのが、結城麻子を最初に見たときのわたしの感想だった。

義務教育の最中ならともかく、高校生になってからの転校生というのはごく珍しい。いきおい皆の目は、なにか珍しい生き物を見せられてでもいるような輝きを帯びる。二年生になったばかりとは言え、一年時とまるで変わりばえのしないクラス編成だったから、わたしたちはこの滅多にない出来事を、大した娯楽として受け入れていた。

だが、わたしたちが無意識のうちに相手に課していた期待を、当の本人は物の見事に裏切っていた。

まず外見からして拍子抜けだった。鼻の頭から頬にかけて、一面にちりばめられたそばかすや、短く切りそろえられた髪形だけを見ていると、まるで男の子みたいに見える。頬骨から顎にかけてのラインは、三角定規を使って描いたように鋭角だ。スカートからにょっきりと突き出た二本の脚などは、スマートと言うよりは貧弱と呼んだ方が正しいような代物である。真新しいセーラー服を着ているのだが、ちょっと気の毒なほどに似合っていない。

また、彼女の物腰にしても、予想とは大きく違っていた。緊張しているわけではないことは、その落ちつきはらった態度からもうかがえたが、その割には笑顔一つ浮かべるでもない。何が気に食わないのかは不明だが、いつもむっとしたような表情をしている。

〈仏頂面をした痩せっぽちの少年〉というのが、トータルしての印象だった。

クラス中の好奇心に何割分かの失望が混じる中、先生は転入生を紹介し終え、新しい生徒に自己紹介するように命じた。

「結城です」ぼそっとつぶやいた後、一拍置いて結城麻子は仕方なさそうに付け加えた。「よろしく」

担任教師は麻子のことを「神戸の公立校から来た」と紹介した。麻子が発したのはただの二文だけだったが、そのイントネーションは彼女の履歴を裏付けていた。もちろんわたしたちに兵庫弁と大阪弁の微妙な違いなど聞き分けられるものではないが、少なくとも彼女が関西方面から来たことだけは、ただちに実感することができたわけだ。

だが、麻子に関して新たなデータが付け加えられることはなかった。わたしたちは当然その後に続くべき言葉を待っていたのだが、教室の中はしんと静まり返ったままだった。

「おいおい、それだけか」

苦笑しながら担任教師は言った。「他にも何か……あるだろ。趣味とか特技とか」

「別にないです」

転入生はきっぱりと断言した。

「素っ気ない奴だなあ。それじゃ、挨拶代わりにうちの学校の印象でも言ってもらおうかな」

「わあ、気持ち悪ゥって思いました」

即座に答えてから、彼女はかすかに微笑んだ。

「気持ち悪い?」

先生は不思議そうに聞き返した。おっとりしたお嬢さん気質で知られるうちの学校は、近隣では〈娘を入学させたい高校〉のナンバーワンだった。気持ち悪いなどと言われる要素など、どこを探してもあるはずはない。そういう自負があったから、腹を立てるよりも怪訝な思いの方が先に立ったのだろう。

麻子は薄い微笑を浮かべたまま言った。

「わあ、女ばっかりや、気持ち悪ゥ、タスケテーって思たんです」

なるほどなあと先生は笑った。もっとも、笑ったのはこの人の好い教師一人で、生徒たちの方はみんな憮然としていた。女ばっかりで悪かったわね、なによ、自分だって女のくせに。

「結城は共学だったからな。男子がいないのは気の毒だけど、まあそのうち慣れるよ。じゃ、みんな、仲良くしてやってくれ」

女子校の生徒は共学に通う女生徒たちに、いわれのないコンプレックスを抱きがちだ。その微妙な心理を、結城麻子はまるで狙いすましたように突いてきたのである。

たぶん、大多数の生徒はこう思ったに違いなかった。

〈やなこった!〉


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