あの日_朱音は

その日、朱音は空を飛んだ 5┃武田綾乃

金曜日の授業終わりを告げるチャイムの音は、いつもよりも甘美な響きがする。教室を後にする生徒たちはみな浮足立っており、上靴の刻むリズムはどこか軽やかだ。

「部活行こうぜ」
 
隣の机に浅く腰かけ、俊平は脚を揺らす。その傍らにある鞄は、教科書が入っていないのか随分と薄かった。

「今日は三年とパス練らしいぜ」

「マジかよ、めんどくさ」

「先輩に向かってそんなこと言うなよ」
 
立ち上がった祐介を見て、俊平は机から飛び降りる。ガタリと揺れた机の脚に、祐介は眉をひそめた。

「あぶねーな」

「倒れなかったからセーフだろ」

「そういう問題じゃねえっつーの」
 
祐介と俊平。二人が共に歩くだけで、周囲の女子生徒からは熱っぽい視線が送られる。自分たちの見栄えがいいことを、祐介は十分自覚していた。

「そういえばさ、」
 
俊平が不意に足を止める。彼の背後には、窓ガラス越しに雲一つない青空が広がっていた。透き通ったコバルトブルーは、忍び寄る夏を思わせた。

「高野、今日から学校に来てるんだってさ」
 
彼が指差す先には、グラウンドの端に佇む高野の姿があった。ジャージ姿の彼女は、普段通りの態度で部活に臨んでいるようだ。長い黒髪が乾いた風になびいている。

ふうん、と呟いた祐介に、俊平は不服そうな顔をした。単純明快な彼は、もっとポジティブな台詞を祐介に期待していたのだろう。注がれる視線に根負けし、祐介は肩を竦めた。

「元気になって良かったな」

「だよな!」
 
こちらの返答に満足したのか、俊平は大きく口を開けて笑った。彼のこうした快活さが、今の祐介には煩わしかった。


この学校のサッカー部の練習は、大抵ストレッチから始まる。身体の筋肉をほぐし、それからパスやシュートの練習に移るのだ。練習にどんな効果があるかは知らない。

先代の、そのまた先代の先輩たちが作った練習メニューを、ただダラダラとなぞっているだけだからだ。
 
練習時間はまだ続いていたが、祐介は人目を避けるように部室へ向かった。サボり癖に関しては先輩から色々と小言を言われることもあるが、活動に熱心な部でもないため、部長や顧問からは見逃されている。
 
扉を開くと、そこにあったのは日誌を書いている高野純佳の姿だった。長い黒髪を耳に掛け、彼女はゆっくりと顔を上げる。

「あぁ、一ノ瀬くん。お疲れさま」
 
水曜日に会ったときと比べ、高野の顔色は格段によくなっていた。蒼褪めていた唇は血色を取り戻し、瑞々しさに満ちている。胸の位置まで伸びる黒髪は艶やかに輝いており、その双眸は生気を湛えていた。

「今はパス練の時間だけど、何か忘れ物?」
 
祐介がサボりに来たことぐらい、マネージャーである彼女にはお見通しだろうに。なんとなくばつの悪い思いをしながら、祐介はベンチへと腰かける。
 
日誌の空白を、高野の整った文字が埋めていく。几帳面に並んだ文字は、整然としていて読みやすい。

「休憩しに来たんだよ」

「そうなんだ」
 
手を止め、彼女が青色のボトルを差し出してくる。お手製のスポーツドリンクだ。

「サンキュ」
 
祐介はそれには口をつけず、持つだけに留めた。

「飲まないの?」

「まあな」
 
正直なところ、高野から受け取ったものを素直に口に入れる気にはならなかった。
 
日誌を閉じ、彼女は大きくため息を吐いた。こちらを見る視線には、どこか刺があるような気がする。剣呑な雰囲気に、祐介は思わず身構えた。

「莉苑に余計なこと聞いたでしょ」
 
莉苑とは、夏川莉苑のことか。純佳、と親しげに名を呼ぶ夏川の横顔が、祐介の脳裏を過ぎる。

「それがなんだよ」

「どういうつもり? 朱音の件を探るなんて」

「なんだよ、調べられたら困ることでもあるのか?」
 
挑発的な台詞に、高野の眦がきりりと吊り上がった。高野は学校指定のジャージを着ている。自身の真面目さを強調するかのように、彼女はファスナーを一番上まで上げていた。意志の強さを感じさせる面付きは、数日前の彼女とはもはや別人のようだった。

「痛くもない腹を探られて、嫌だと思わない人はいないと思うけど」

「本当にそれだけか?」

「何が言いたいの」
 
二人きりの部室はやけに静かだった。祐介は高野の眼前にスポーツドリンクのボトルを突き出す。

「俺、ずっと前から怪しいと思ってたんだよな。お前のこと」
 
彼女はそれを受け取らない。その手がボトルを払いのけると、ボトルは簡単に机の上へ転がった。高野はそれに視線すら向けず、祐介を睨みつけていた。

「どうして?」

「状況的に考えて、川崎朱音の自殺現場にお前が居合わせていたことが偶然だとは思えない。自殺のくせに遺書もない。屋上なんて目立つ場所を死ぬために選んでいる割に、川崎が飛び降りたのはグラウンド側ではなく、人気のない校舎裏。ちぐはぐなんだよ、川崎の行動は。だけど、こう考えたら筋が通る」
 
祐介は傲慢な動きで足を組んだ。

「お前はあの日、屋上に川崎朱音を呼び出した。そして、校舎裏に向かって川崎を突き落としたんだ。川崎朱音は自殺だったんじゃない。お前に殺されたんだ」

「それ、本気で言ってるわけ」
 
問う声音は冷ややかだった。平静を装っているが、彼女の太ももは先ほどから小刻みに上下に揺れている。苛立ちが隠せていないのだ。

高野の動揺を一つ見つけるたびに、祐介は自身の視界がクリアになっていくのを感じた。血管が開き、熱が体内を巡る。舌先が淀みなく動き、祐介に言葉を紡がせる。

「ただの推理だよ。けど、こう考えればつじつまが合う」

「私が朱音を殺す動機は? あの子は、私の幼馴染だったのよ?」
 
動機。それを考えると、祐介の思考はいつもストップしてしまう。他人の心の機微を摑むのは、祐介にとって何より難しいことだった。何故、高野は川崎を殺したか。その疑問と向き合ったとき、祐介の脳裏に先日の母親の台詞が蘇った。
 
──女はね、恋愛に関しては怖いわよ。人だって殺せるんだから。

「お前は、中澤博のことが好きだったんじゃないか?」
 
声に出してみると、すべてのピースがカチリとはまったような気がした。そうだ。そう仮定すれば、すべてが繫がる。

「だけど、中澤は川崎朱音と付き合っていた。嫉妬で、お前はアイツを殺したんだ」

「そんなわけないでしょ」
 
両手で机を叩きつけ、勢いよく高野が立ち上がる。こちらに詰め寄ろうとする彼女を、祐介はスマホの画面を突きつけることで制止した。

「動画にだって、屋上にいたお前の姿が残ってる。否定の言葉だけじゃ、俺はお前を信用できない」
 
再生ボタンを押せば、例の動画が流れ始める。高野は露骨に顔をしかめると、画面から目を背けた。その額には汗が滲んでいる。

「そんな動画、よく見られるね。私は絶対に見たくない。大体、こんな動画、信用できないよ。編集で加工してるかもしれないし」

「編集なんかしてねーよ!」
 
声を荒らげた祐介に、高野はハッと息を呑んだ。その双眸がさぐるように祐介を見る。自身の胸元を手で押さえ付け、彼女は震える声で問いを発した。

「……まさか、アンタがこの動画を?」
 
肯定か、否定か。冷静な思考であればすぐさま選べたはずの二択に、祐介は言葉を詰まらせた。撮影者としてのプライドと、自己保身。二つの感情が、胸中で激しく衝突する。

「それは、」
 
即座に否定できなかった時点で、疑惑を認めたようなものだった。
何故、匿名のSNSアカウントで動画をアップロードしたのか。何故、誰にも撮影者であることを秘密にしていたのか。その答えは簡単で、自分が撮影者であることを知られたくなかったからだ。

もしも自分があの現場にいたと知られたら、次に掛けられる台詞は決まっている。

「信じられない。撮影してる暇なんてあったら、もっと他にやるべきことがあったでしょう?」
 
高野の声は、軽蔑に満ちていた。トーストにバターを塗るみたいに、高野はたっぷりとした毒をその眼差しに塗り込んだ。

「どういうつもりなの? どうして、こんな動画をネットに上げたの」

「それは……伝えなきゃって思ったから。俺らの学校で起きてることなんだから、みんな知りたいだろうし」

「それで? 隠れてニヤニヤしてたわけ? 自分の動画を見てみんなが反応するのが楽しかったって? 最低じゃん」

「ちげぇよ」

「そのくせ、私が殺したとか言ってきてさ。アンタ何様のつもり──」

「真実を知りたいと思って、何が悪いんだよ!」
 
そう叫んだ瞬間、祐介の眼に向かって冷たいものが飛んできた。目元を拭うと、皮膚にべったりとした感触が張り付く。ボトルに入っていたスポーツドリンクを高野が浴びせてきたのだ。濡れた前髪を搔き上げ、祐介はそこでようやく自身の手の中にあるスマホの存在を思い出した。

手元に視線を落とすと、液晶画面が濡れている。それが視界に入った瞬間、一気に血の気が引いた。慌ててズボンに擦り付け、水分をふき取る。電源ボタンを押すと、液晶はいつものように明るい光を取り戻した。スマホを握りしめたまま、祐介は目の前の女を睨みつける。

「なにすんだよ。壊れたらどうするんだ」
 
俯いたまま、高野は何も言わなかった。ボトルを握る手は力なく垂れており、その飲み口からは糸のように液体がこぼれている。このままでは部室に水たまりができてしまう。

「おい、」
 
思わず伸ばした手を、高野は素早く払いのけた。ピシャン、と乾いた音が部室に響く。手の甲に走った痛みに祐介が文句を言うよりも先に、高野は口を開いていた。

「真実って、何?」
 
その手から、ボトルが滑り落ちる。声はか細く、華奢な肩は小刻みに震えていた。ジャージの裾を強く握りしめ、彼女は顔を上げた。その表情に、祐介は息を呑む。
 
高野は泣いていた。瞳は涙で滲み、そこから大粒の滴しずくが次から次へと零れ落ちる。

「朱音と他人のアンタが……朱音のことなんか全然知らないアンタが、それを知る必要なんてある? わざわざ周りの人間をコソコソ嗅ぎまわって、それで? 本当のことを知ってどうするの? またネットにアップする?」
 
くしゃりと、高野の顔が歪む。わなわなと震える唇は、燃えるように赤かった。その気迫に圧倒され、祐介は一歩後ずさりした。空いた分の距離を詰めるように、高野が身を乗り出す。伸ばされた手が、祐介の胸倉を摑んだ。その力は、あまりに弱かった。

「知りたいって思う人間全員に真実を知る権利があるとは、私には到底思えない」
 
その細い指が、祐介のスマホの画面に触れた。大して力のない高野を振り払うことなど、祐介にとっては造作もないことだった。

なのに、身体が動かない。彼女の眼差しが、吐息が、祐介の良心を今にも握りつぶそうとしている。息ができない。酸素が足りない。

「ねえ、ここに映ってるの、生身の人間だよ。自分のやったことの意味、本当に分かってる?」

声が出なかった。自分のやったことの意味。考えまいとしていた現実が、急速に祐介の前に押し寄せる。
 
まるで幼子のように、高野はしゃくりあげた。

「朱音は生きるのが苦しくて死んだのに、なのに、どうして死んでから見世物みたいにされなきゃいけないの? みんな、なんで笑ってこの動画が見られるの? 私には理解できない。こんなの、朱音を侮辱してる」

言われなくたって、そんなことは重々承知のはずだった。何度も繰り返し見た動画だ。川崎朱音の死の瞬間を握る、重要な証拠映像。低い画質で映されたそれは、紛れもない真実を捉えている。

そう、ここにあるのは真実だ。屋上から落下しているのは、ただの無機物なんかじゃない。自分と同じように生きていた、生身の人間だ。
 
喉がひくつく。胃が痙攣し、すえた臭いが食道を逆流してくる。不快感に、祐介は思わず顔をしかめた。川崎朱音は死んだ。そんなこと、最初から知っていた。ただ、実感がなかっただけで。
 
涙を恥じるように、高野は自身の目元を乱暴に袖で拭った。赤く腫れる目元は、随分と痛ましかった。彼女は怒っていた。たぶん、亡くなった友人のために。

「朱音の死を、アンタなんかが踏みにじらないで」
 
嗚咽交じりの彼女の声が、心臓をきつく締め上げる。怖い。己の犯した罪の重さに戦慄が走る。自身の下劣さを認識した瞬間、祐介は一目散に駆け出していた。部室の扉も閉めず、祐介はただがむしゃらに走る。とにかくここから逃げたかった。
 
高野は、追ってこなかった。


「──はぁっ、」
 
全力で走った祐介が辿り着いた場所は、川崎が死んだ場所でもある北校舎裏の空きスペースだった。息を切らしたまま、祐介は壁に手をついた。ゼイゼイと上下する肺は、やがて空気だけでは飽き足りないと言わんばかりに、胃の中身まで逆流させた。吐き出された吐瀉物が、地面に醜く飛び散った。

「くそっ」
 
震える手で、祐介は動画を再生する。画面に映し出される、柵に摑まる少女。ぼやけた肌色。彼女は下を覗き込む仕草を見せ、そのまま力なく崩れ落ちる。

もしかして、高野はこの時、川崎朱音を救おうとしたのではないか。届かない手を伸ばし、必死に。眩暈がする。画面にちらつく紙片、鮮烈な赤。動画を構成するすべてが、気持ち悪くて仕方なかった。脂汗が額に滲む。腹部を押さえ、祐介は歯を食いしばる。

SNSの投稿ページを開くと、華々しい数字が祐介を出迎えてくれる。以前までなら高揚感を抱いたはずのそれに、覚えるのは嫌悪だけだった。感覚のない指で、祐介は投稿ページを削除する。一瞬にして、アカウント上から動画が消える。そこには、痕跡すら残されない。

「ははっ」
 
込み上げてくる笑いは随分と乾いていた。どっと無力感が湧き上がり、祐介はその場にへたりこんだ。すっかり気が抜けていたせいで、危うく汚物に触れそうになった。

「最初からこうすりゃよかったんだ」
 
次は自分のフォルダから動画を消そう。そう思い立ち、スマホを操作しようとしたところで、ピコンとスマホの通知音がなった。見ると、中学時代の友人から、メッセージが来ていた。

『これ、お前の学校だろ? やばくね?』
 
簡単なメッセージの下に添えられた、短い動画。──まさか。唾を呑み込み、祐介はゆっくりと手を伸ばす。
 
再生ボタンを押すと、流れてきたのは見覚えのある映像だった。それは、先ほど祐介が自身の投稿から消したはずの動画だった。少し考えれば分かる。ネット上に拡散されたものは、もはや祐介が管理できる限界を超えていた。

どうやっても、もうあの動画は消せない。川崎朱音の死の瞬間は、いつまでもネット上に晒され続けるのだ。

『この屋上の子、あやしくね?』
 
続いたメッセージを見た瞬間、祐介はスマホを壁へと投げつけていた。コンクリートの壁にぶつかり、スマホから不穏な音が響く。ひび割れた画面を天に向け、スマホは蟬の死骸みたいにその場に惨めに転がっている。
 
それでも、動画は消えなかった。

*   *   *

続きは、書籍にてお楽しみください

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