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野望と嫉妬が渦巻く中で…この小説を書くために、NHKを辞めました #1 ガラスの巨塔

巨大公共放送局で、三流部署ディレクターからトッププロデューサーにのし上がった男がいた。手がけた『チャレンジX』は、視聴率20%超の国民的番組となり、特別職に誰よりも早く抜擢される。しかし、天皇と呼ばれる会長が失権すると事態は一転し……。元NHKプロデューサー、今井彰さんの『ガラスの巨塔』は、組織に渦巻く野望と嫉妬を描ききった「問題小説」。その存在意義が問われている今こそ読みたい、本書の一部をご紹介します。

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テレビ界の際限なき肥大と退廃の海に溺れるアジアンモンスター。そう畏怖され、揶揄された放送局があった。全日本テレビ協会、通称・全日本テレビである。

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東京都心、二万六〇〇〇坪の広大な敷地にそびえ立つ二十三階建てのビルディングは、全面ガラス張りで威容を誇っている。そのガラスはいくつもの角度に乱反射し、中を窺い知ることはできず、身を守る氷の鎧にも似ている。「皆様の全日本テレビ」で知られる公共放送局だ。その巨大な姿を示す数字には事欠かない。

抱え込んだ社員は一万人を超える。旧ソ連のモスクワ国営テレビが解体されたあと、人数だけなら世界最大となった。全国の県庁所在地を中心に張り巡らされた支局は五十四、海外支局は二十八に及ぶ。また、別働隊として、全日本テレビには出版社やビデオ販売会社、果ては実態さえ不明な会社まで三十社がぶら下がっていた。

国営のラジオ専門局として大正の末に開局してから八十年あまり、放送という見えない餌をむさぼり尽くし膨らみ続けてきた。戦後、特殊法人になると、放送規定法に書かれた「テレビ受像機を持つ国民は支払いの義務を有す」という文言を手形に、全日本テレビの元には黙っていても国民一世帯あたり年間三万円を超す聴取料が集まった。毎年の事業収入は七〇〇〇億円に迫る。テレビ界のコングロマリットであり、その頂点に立つ会長は「天皇」と呼ばれた。

第一部 折れない心

一九九一年七月、戒厳令下のイラク。

首都バグダッドから遥かに遠く離れた砂漠地帯をサウジアラビアの国境を目指して彷徨う一台の車があった。砂漠の気温は六十度に迫り、乗り込んだ男たちの肌を容赦なく焼いた。大地は陽炎にかすみ、風に混じった砂が飛礫のように鋭く肌に刺さる。車のクーラーなどまったく効かず、乗り込んだ四人の男たちは、蒸し風呂状態の中で全身汗まみれになりながら襲いくる熱風に顔を歪めた。

全日本テレビ協会のディレクター西悟は、いつ果てるか分からない砂漠の先をひたすら見つめていた。ヨルダンのアンマンからイラクに入って二カ月、水にあたり、激しい腹痛を何度も経験した。中肉中背の体は九キロやせ、様変わりしていた。頬はこけていたが、西のくっきりとした双眸は何かに憑かれたかのように鋭い輝きを放射していた。

イラクの砂漠は、現地で“土漠”と呼ばれている。太陽に照り固められ、コンクリートをぶちまけたような凹凸の激しい道だった。車はその道に足をとられ、何度も大きくバウンドを繰り返す。運転手以外の三人は何度も天井に頭をぶつけていた。

対人用に仕掛けられた地雷が方々に埋まっており、下手をすれば両足が飛ぶと、砂漠に入る前に現地の保安部隊から散々注意を受けた。助手席に陣取る西は、歩けなくなってはたまらないと、最初のうちは不自由な姿勢で足をボックスの上に乗っけていたが、たちまち面倒になった。むしろバウンドに耐えられるように、両足をぐいっと踏ん張った。

ハンドルを握るのはバグダッドで雇い入れたイラク人だ。西は国境警備兵のジープが刻んだと思われる轍を見つけるたびに、

「頼むから、その上を外さずに走ってくれ」

と教わったばかりのアラビア語で運転手に指示を出し続けた。それが地雷を踏む危険を減らす、か細いながら唯一の手立てだった。

後部座席にはカメラマンの香月と、エジプトから連れてきたアラビア語の通訳でカイロ在住二十年の鈴田がいた。

香月は五十代半ばで、定年間際のカメラマンだ。西とは今回初めて組んだというか、組まされた。頭髪が大きく後退し、顔はゆで卵をむいたようにつるんとしている。レバノン内戦でベイルートを駆け回ったというふれこみだったが、げんなりした顔でしおれるようにシートの上でお嬢さん座りをしている姿は何とも心許ない。不格好な姿勢で、一番多く車の天井に禿げ頭をぶつけていた。

対照的に鈴田は意気軒昻だった。鈴田の愛称はスーさん。四十がらみで、アラブ人と見まがうほど浅黒く焼け、小柄な体に不釣合いな立派な鼻髭をたくわえている。髭のない男はアラブでは子供扱いされて仕事にならないと、髭を労るように撫でながら自慢する。スーさんは元過激派、七〇年安保の新宿騒乱事件で駅舎に火を放ち、日本を脱出したという。真偽のほどは定かではないが、時にその目は剣呑である。

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砂漠に入る前夜、西たちが滞在していたのはイラク南部の町、サマーワだった。サマーワはイラクの重要な軍事拠点であったため、アメリカ軍の主要な攻撃目標として空爆で完膚なきまで破壊されていた。

町の中央部に架かる橋は真っ二つに折れ、建物はなぎ倒される形で斜めにひしゃげている。腕を根元から失った少年の瞳や、松葉杖もない片足で懸命に歩こうとする若い女の姿に、西は胸をしめつけられる思いに駆られた。

その夜に泊まったサマーワの宿は空爆で半壊していた。通された部屋の屋根の三分の一が破れ、空が覗いていた。部屋には二つのベッドとソファがあったが、触れると砂でざらざらだった。トイレからは汚物が溢れ出し、用を足すにも跨がなければならない。鼻先を捻じ曲げる強烈な異臭が部屋全体に漂っていた。

西は可笑しくなって、突然笑いだした。

こんな経験はめったに出来ないな、今までの人生よりはよっぽどいい。

三十五歳の若さゆえか、気力が満ちてくるのを感じる。困難に直面すると西はいつも陽気になった。二人にベッドを譲ると西はソファで寝た。ちょうどソファの真上に穴がすっぽりと開いている。夜空に星が見えた。

明日から砂漠だ、体力を温存しよう。

西はウイスキーを一杯、生のまま喉に叩き込むと寝入りかけた。

どのくらい時間が経っただろう。騒々しい物音に、うっすらと目を開けた西の目に、奇怪なものが飛び込んできた。茹で上がった蛸が踊っているのである。理解するのに時間がかかったが、それはカメラマンの香月が体をくねらせ、両手を回して踊る姿だった。顔はアルコールで真っ赤になり、唇を突き出し、本当に蛸に見える。時折、意味不明の奇声を上げて、香月は西が寝そべるソファに近づいてきた。西の肩に手をかけ揺さぶり起こすと、幼児のような哀願を始めた。

「西チャーン、もういやだよう。こんなところ、早く帰ろうよ。お願いだから助けてちょうだーい、勘弁勘弁、ああいやだよー」

西は憤然とした。

「香月さんはレバノン内戦を撮ったカメラマンでしょう。この程度のことで何を言ってるんですか」

「だって、ホテルはもっと立派だったし、屋根あったもん。帰してくれよ、お願いしますよー」

香月は半酔いの状態でしばらくの間、ダダをこね続けた。西は呆れ果て無視を決め込んだ。すると今度は、スーさんのベッドに向かって哀願を始めた。

「スーさん、鈴田さん、先生、お願いですから帰りたいよう――」

スーさんが突然起き上がると、額に青筋を立てて怒鳴った。

「うるせえな、はげじじい!」

そう言うや否や、いきなり香月の禿げ頭を平手でぴしゃりと叩いた。

「ああひどい、ああ、いたい!」

悲鳴を上げながら香月は自分のベッドに戻った。しばらくの間奇声をあげていたが、やがて鼾をかきだした。

西は自分よりも二十歳も年上の男の無様な醜態を見ながら、男の値打ちはいつもぎりぎりのところで露わになると思った。香月の酔い惑う姿が残像のように漂い、すっかり目が冴えてしまい、なかなか眠りにつけなかった。

翌朝、西が一階で石のように固いパンを歯で引きちぎってチャイで流し込んでいると、香月が起きてきた。昨日のことは全く覚えていないようだ。香月はパンを手にしたものの、固すぎると文句を言ってそれ以上口をつけようとしなかった。

そこに、サマーワの保安部隊に治安情報を聞きに出かけていたスーさんが戻って来た。その目が殺気立っている。いきなり、がなり始めた。

「とんでもない話を保安部隊から聞いたぜ。アメリカさんが空から砂漠のあちこちに地雷をまいたって話だ。ソ連や中国製のちんけな地雷じゃない。砂の中に潜って音に敏感に反応する優れもんだ。この間も地元のトラックが吹っ飛んで運転手の足が二本さらわれたって言うじゃねえか、とんでもねえ話だ。俺は行けないな。言っとくが怖いんじゃないんだぜ、俺はフリーなんだ。あんたがた大会社の人間と違って保険にも入っちゃいねえよ、足がなくなりゃおまんまのくいあげだ」

その瞬間、西が切れた。すっくと立ち上がると小柄なスーさんに詰め寄り、怒鳴った。

「吹っ飛んでも足二本だろう! 中東に二十年もいてびびるんじゃねえよ。死ぬわけじゃねえんだぜ。俺も保険になんか入ってないよ。会社にもこんなところに来るなんて連絡してねえさ。安全なんたら規則で許可なんか下りねえよ。これは闇ロケなんだ。何かありゃ処分も覚悟している。あんたもそんなことは分かっているだろう、面白がっていたじゃねえか。男気ひとつ、あんたにはねえのか」

西の目には狂気の情念が宿っていた。スーさんの両腕をつかむと思い切り引き寄せた。

「スーさん頼む、俺に力をくれ、あんたが絶対に必要なんだ。ここで撮らなきゃ、一生後悔するものがこの砂漠の向こうにあるんだ」

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