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#2 呼ばれなかったお誕生会…「生きづらい」女性を優しく包む物語

友だちとして、恋人として、会社員として、妻として、母として。女性の一生は、「オーディション」の連続……。人気小説家、桂望実さんの『オーディションから逃げられない』は、こうした人生に「生きづらさ」を感じている女性を、優しく包んでくれる物語です。共感必至の本作品から、冒頭部分を少しだけお届けしましょう。

*   *   *

それから五分ほどで、私たちは温泉街の入り口に到着した。

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Y字路の左に行けば旅館やホテルが並ぶ温泉街で、右には別荘や保養所が多い。ワタナベベーカリーは右に進んで約三十メートルのところにある。

パパと私は裏口から厨房に入った。

パパはすぐに店を覗いて、パートの松本かずえさんに「お疲れ様」と声を掛けた。

私も厨房から顔を出して「ただいま」とかずえさんに言う。

かずえさんが笑顔で「お帰りなさい」と答えて、すぐに「見せてちょうだい」と私の腕を引っ張った。

私の制服をしげしげと見てからかずえさんが頷いた。「凄く似合ってる。もう今日から中学生なのね。なんだか昨日より顔つきがしっかりして見えるわ。やだわ、なんで涙が出ちゃうのかしら。洋介さんも展子ちゃんの雰囲気がしっかりしたように見えません?」

パパは首を傾げて「どうかな?」と言った。

かずえさんはママと仲が良かった。昼前になると、かずえさんはパンを車に積んで本宮高校に運んだ。当時は本宮高校の中にある売店でも、うちのパンを売っていた。この担当がかずえさんだった。高校の昼休みが終わると、かずえさんはここに戻って来て、ママと交代して店番をした。ママは銀行に行ったり、家に戻って掃除をしたり、夕飯の下準備をしたりした。夕方また店に戻ってかずえさんと少しお喋りをした。かずえさんが先に帰って、ママはレジのお金を計算して店を閉めた。ママがいなくなって、高校の売店でパンを売るのは止めた。今はこの店だけでパンを売っている。

カランコロン。

ドアに付けた鈴が鳴ってお客さんが入って来た。

かずえさんが「いらっしゃいませ」と言って、パパと私は厨房に引っ込んだ。

パパが冷蔵庫を開けて「お腹空いたろ」と言って、玉子サンドを出してきて私の前に置いた。「展子のために取っておいたんだよ。店に出すと売れちゃうから」

「有り難う」隅にある丸椅子に座った。

「失敗したカレーパンと丸パンもあるし、他のが良ければ店にあるの、なんでもいいから選びなさい」

「うん」玉子サンドの包装紙を剥がす。

パパが牛乳をグラスに注ぐ。「今夜は寿司の出前を頼んであるからな」

「そうなの?」

「あぁ」

「パパは? 食べないの?」

「そうだな。失敗した丸パンを食べるよ」

「パパはパンの中でどれが一番好きなの?」

「自分が焼いたパンの中で?」

「そう」

「なにかな?」丸パンを齧った。「全部かな。全部好きだな。順番は付けられない」

「ふうん」

「ダメかい?」

「ダメじゃないけど」私は牛乳を飲む。「ママも同じこと言ってた。ママに聞いたの。そうしたらパパが焼いたパン全部好きよって。順番は付けられないって」

「そうか」笑っているのに寂しそうな顔をした。

玉子サンドとシベリアを食べた私は、一人で厨房を出た。

店の前を歩き出すとすぐ「展子ちゃん」と声がした。

振り返るとかずえさんがいた。

エプロンのポケットからかずえさんが包みを出した。「これ。入学祝い。はい、どうぞ」

「いいの? 有り難う」

「どういたしまして。展子ちゃんの晴れ姿を、礼子さんも見たかったでしょうにね」自分の胸に手をあててから一つ息を吐く。「きっと見てるわね、天国から」

「……」

「展子ちゃんは顔がどんどん礼子さんに似ていくわね。それでかしら。展子ちゃんと話してると、なんだか礼子さんのことを思い出してしまって……いやね、私ったらなに言ってるのかしら。楽しい中学校生活になるといいわね」

「うん」

かずえさんと別れて私は歩き出す。

前方から一台の自転車が近付いて来た。

乗っているのが安藤若菜の弟の靖彦だとわかった時、向こうも私に気が付いたみたいで、自転車を止めた。

そうして自転車を少し斜めにして、片足を地面に着けた。

靖彦は若菜の一つ下で、明日小学六年生になる。私と若菜は小学五年と六年で同じクラスだったけど、中学では別のクラスになった。

靖彦が言った。「日曜日のケーキ、アイスだって」

「えっ?」

「日曜の姉ちゃんのお誕生会。ケーキはアイスので、あと手巻き寿司だって」

「……」

「アイスのケーキ、嫌い?」

「そうじゃなくて。私……呼ばれてないから」

目を丸くした。「そうなの? どうして?」

「どうしてって……」

どうしてかな。去年は誘われてウサギのぬいぐるみをあげた。あのプレゼントが気に入らなかったのかな。ううん。違うな。プレゼントじゃない。若菜が好きなキャラクターのだったから、嬉しかったはずだもの。私は今年仲良くしたい人に選ばれなかった――。喧嘩とかしてないのに……。もういいやって思ったのかな。中学に行ったら他の子と仲良くするからって。去年お誕生会に誘われた子のうち、今年誘われなかったのは私だけなのかな。凄く嫌な気分。ちょっと傷付く。

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「僕、言おうか? 姉ちゃんに」靖彦が声を上げる。

「言うって、なにを?」

「展子ちゃんが誘われてないって言ってるよって」

「止めてよ。まるで私が誘われたいみたいじゃない」

「違うの?」

「そういうことじゃないんだよ。あのね、若菜にはなにも言わないで」

「そうなの?」

「そうだよ。なんか靖彦君、余計なこと言いそうだからヤだな。今日ここで会ったこともなかったことにして。いい? わかった?」

「わかった」

「今日私とは会ってないんだよ。だから話もしてないんだからね」

「わかった」頷いた。

私はざわざわした気持ちのまま靖彦の姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。一つ息を吐いてから歩き始めた。自宅の門扉を開けて玄関ドアを引いた。靴を脱いですぐ右にある階段で二階に上がる。左の部屋の引き戸を横に滑らせた。ベッドに重い補助鞄を置く。窓を開けて風を入れた。

私の部屋はとても狭くて、そこにベッドと机と本棚と簞笥が置いてあるので、歩ける場所はほとんどない。

狭くても自分の部屋を私が持っていることが、妹の華子は気に入らないみたいで、その下の妹の綾子と二人で部屋を使っているのが嫌だと、パパに訴えていた。

私は補助鞄からかずえさんに貰った包みを取り出した。包装紙を剥がして赤いケースを開ける。赤い二本のペンのうち、キャップ付きの方を持ち上げた。キャップを捻って開けると万年筆だった。それをケースに戻して、もう一本のシャーペンを握ってみると、いつも使っているのより重かった。そのシャーペンも元に戻した。それから腕時計に目を向ける。

針は午後〇時半を指している。

この腕時計はパパからの入学祝いだった。

腕時計を外して机に置いた。それから机の引き出しを開けて、ママの写真を手に取った。その写真をじっと見つめる。それから鏡を右手に持ち、自分の顔と写真のママの顔を見比べた。

ママと似ているかどうかはわからなかった。

セーラー服から長袖のTシャツとジャージに着替えて、部屋を出る。

一階に下りて廊下を進みリビングの端に立った。

華子がソファに横になって漫画を読んでいて、綾子はテレビを見ていた。華子は明日から小学五年生に、綾子は三年生になる。

「ただいま」と私が言うと、二人は顔をこっちに向けた。

「お帰り」と綾子が答えて、「入学式どうだった?」と聞いてきた。

「フツーだった」と私は答える。

「フツーって?」と綾子が聞き返してきたので、「校長先生がおめでとうと言って、今日から皆さんは中学生ですって話をして、生徒の代表がこれから頑張りますっていう作文を読んで終わり」と説明した。

「担任はいい先生っぽい?」

「わからない」私は首を左右に振る。「男の先生だった。ね、お昼食べたんだよね?」

「食べたよ。パパが作っておいてくれたお握り」

「そう。今夜はお寿司の出前を取るって」

「やったー」両手を真っ直ぐ上げる。「展子姉ちゃんのお祝いだからだね」

すると華子が「いっつも展子姉ちゃんばっかり」と不満そうな声を上げた。

私は「華子が中学に入学する日も同じにするでしょ、きっと」と言った。「嫌なら、華子は今夜お寿司を食べなければいいよ」

「……」華子はぷいっと顔をそむけて漫画に目を戻した。

「お風呂の掃除は終わったの?」私は聞いた。

華子が答えた。「これから」

「今みたいな時にやっちゃえばいいのに。そうやって華子がお風呂掃除を後回しにするから、皆迷惑するのよ。華子の掃除が終わるのを待たされて、いっつもお風呂に入るのが遅くなっちゃうんだから」

「いつもじゃない」華子が否定する。

「いつもよ」

「お風呂掃除は大変なの。私が一番大変なのをさせられてるんだもん」

「だったら私と代わる? 毎朝学校へ行く前に洗濯機を回して、洗濯物を干す? いいよ、代わっても。毎日ちゃんと早起きしてね」

華子が怒った顔をする。「他の子は家で担当なんてないもん」

「他の子にはママがいるんだよ。でもうちにはママがいないんだから、皆でやるしかないでしょ。他の子と比べるの止めて。文句言わないで」

「展子姉ちゃんはいっつも威張ってる」

「威張ってない。華子が我が儘ばっかり言うから注意してるの」

「ママでもないのに注意しないで」

「注意はママだけがするもんじゃない。誰がしたっていいの」

「ママだけよ」強い口調で華子が言う。

「パパは?」

「……」

「パパに言うよ」

「すぐパパに言いつけるんだから。展子姉ちゃんなんて嫌い」

華子は漫画を床に放り投げると、ドンドンと足音をさせてリビングを出て行った。

いつもこんなふうになる。私は正しいことを言っているだけなのに、相手は何故か怒り出したり、白けた感じになったりする。そんな時にはいつも寂しくなった。

綾子はリモコンでテレビを消すと立ち上がり「トイレの掃除するね」と明るく言った。

それからリビングの斜め横にあるトイレまで歩くと、ドアノブを両手で回して開ける。

私は網戸を開けて庭に出た。バスタオルの端に手を伸ばして乾き具合を確かめた。


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